マゾの心理??? そのゲーム(契約)的構造を映画・文学から解き明かす

マゾの心理??? そのゲーム(契約)的構造を映画・文学から解き明かす

サクラさん
SとMってよく言います
が、S(サディスト)な
人とM(マゾヒスト)な人
とが出会えば、相性が
よくて幸せになれそう
ですね(💕😹)

ハンサム 教授
それは大きな誤解です。

破局は時間の問題ですし
持続する場合も決して
ハッピーではない。


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サクラさん
えー(🙀) なんでそう
なるんですか❓

ハンサム 教授
自称”マゾ”の文豪、谷崎
潤一郎は「召し使いに
して下さい」と拝跪して
松子夫人を妻にしました
が、彼女が妊娠すると
中絶を強要しました。

松子さんは産みた
かったのに(😿)…。

サクラさん
オヨヨ。それじゃ逆に
“サド”というか、谷崎
の方がご主人様じゃ
ないですか(叫び)

ハンサム 教授
ええ。マゾヒストは
「虐められる/隷属する」
という物語を生きてる。



その物語内で「虐める/
支配する」という役割を
請け負ってくれる人を
必要とするんです。

サクラさん
ふ~む。それなら、もし
相手がその役割を途中で
投げだして、物語の舞台
というかゲームの世界を
降りてしまったりすれば
The End…❔

ハンサム 教授
マゾヒズムの元祖、
ザッヘル=マゾッホの
代表作『毛皮のヴィー
ナス』自体がまさに
このゲームを降りる、
降りない
のサスペンス
で読ませる小説;^^💦

サクラさん
そうなんだ~。

実際、心底から虐められ
るのが好きな人と心底
から虐め好きな人とが
うまくマッチングする
なんて、確率は限りなく
ゼロに近いですよね。

ハンサム 教授
だから、どちらかあるい
は両方がいくぶんか
演技することで劇的・
ゲーム的な世界に
なっていく。

そこがまたイタくて
たまらない面白さ
なんです;^^💦


というわけで本日は、いわゆる”M”すなわち
マゾ(マゾヒズム)的傾向を自覚している、
あるいはパートナーにその傾向があって
色々と問題を抱えている…
というみなさんへのヒント集。

マゾヒスト(らしい人々)の手になる小説
・映画などに立ち入りながら、”マゾ”の
心理・性向の微妙なヒダに分け入り、
その奥を覗くことで学んでいきましょう!

内容は以下のように、コッテリ……
どうしても盛りだくさんになります;^^💦



ポランスキー映画『毛皮のヴィーナス』(2013)

マゾヒズムの語源になったオーストリアの
作家レオポルド・フォン・ザッヘル=
マゾッホの代表作『毛皮のヴィーナス』
(毛皮を着たヴィーナス、1870.
英訳題 Venus in Furs)。

映画化作品も少なくないようですが
(多くはポルノ的で、日本未輸入)、芸術派
ローマン・ポランスキー監督の2013年作品は
まったく新しい趣向で必見ものです。

同年のカンヌ国際映画祭で特別上映され、
翌2014年にはセザール賞監督賞を受賞。

その脚本はアメリカの劇作家デイヴィッド
・アイヴズが2011年11月に発表して
評判になっていたもので、その後、
欧米各国の舞台でも上演されています。


何が新しいかと言いますと、冒頭の会話
でもふれているマゾヒズム観──すなわち
『それはマゾヒストが作っていく物語
世界であり、舞台である』という──が
明確に打ち出され、それこそまさに舞台上で
その「舞台」が作って行かれるという、
特異な過程を劇化しているところです。

まずは映画予告編をご覧ください。

遠慮がちな日本語版より英語版の方が
ゼッタイ面白いので、そちらで。


つまり『毛皮のヴィーナス』の舞台化に
取り組む劇作家と、そのヒロイン、ワンダ役の
オーディションに現れた女優とのやり取りが
進展する中で、二人はどちらが主導するとも
知れないゲーム的な世界に入っていきます。

この危うさこそはザッヘル=マゾッホ
その人が傑作『毛皮のヴィーナス』で
追求したマゾヒズムの核心をなす問題で、
これを『毛皮のヴィーナス』劇化の過程で
再現するという二重性に、なんとも洗練度の
高い現代芸術性が花開いているのです。

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まあ、見どころはそのあたりになると
思いますので、ポルノ的な興味で覗き見
する人は失望される確率が高いでしょう。

主演のエマニュエル・セニュエ(ポランスキーの
妻でもある)は超グラマラス💃👀…
とはいえもう若くありませんし…;^^💦
👉そのストーリーやきわめて現代的な趣向・
味付けなどをめぐっては、こちらで
詳細かつ多角的に考察しています。

どうぞご参照ください。

毛皮のヴィーナス(映画)のあらすじ【ネタバレ】ポランスキーの逸品!




またポランスキーの前期の代表作、
『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)
についてもこちらで詳しく情報提供
しています。

ローズマリーの赤ちゃんのネタバレ 戦慄の結末は原作でしか読めない!

   


谷崎潤一郎の求愛

ポランスキー映画でしっかりと見据えられていた
「マゾヒズム問題」を一方では知的に理解し
ながら、他方、実生活においてその実践に走り、
かつそれを糧(かて)として旺盛な創作に励んだ
日本の代表的作家。

それが、冒頭でもふれた谷崎潤一郎です。

まず第三夫人、松子さんにせっせと書き
送っていた手紙の一部をご覧ください。

一生あなた様に御仕へ申すことが
出来ましたらたとひそのために
身を亡ぼしてもそれか(が)私には
無上の幸福でございます
〔中略〕
私には崇拝する高貴の女性か(が)なければ
思ふやうに創作か(が)出来ないので
ございますがそれがやうやう
今日になつて始めてさう云ふ御方様に
めぐり合ふことか(が)出来たので
ございます

      

さらには…

御寮人(ごりょん)様にお願いが
あるのでござりますが、今日より
召し使ひにして頂きますしるしに
御寮人様より改めて奉公人らしい
名前をつけて頂きたいので
ござります、

「潤一」と申す文字は奉公人らしう
ござりませぬ故「順市」か「順吉」では
いかがでござりませうか。

柔順に御勤めをいたしますことを
忘れませぬやうに「順」の字を…
     (1934/09/02 書簡)

     031698

召使い、実は”裸の王様”❔

こうして「召し使ひ/奉公人」を志望する
夫によって妻の座に祭り上げられた松子夫人。

ところが、その松子夫人が「産みたい」と
嘆願したお腹の子を、妊娠5ヶ月という
危ない時期に中絶させたのもまた
「順市」ならぬ潤一郎だったのですね。

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とすると谷崎先生、その実態は「召し使ひ」
でも「奉公人」でもなくて、完全に権力を
掌握した主人──あるいはむしろ暴君──
だったというべきでは?

そしてその暴君としての生活は、その専横に
対して何も言えない周囲の人々の忍従に
支えられていますから、彼を”裸の王様”と
呼ぶことも可能ではないでしょうか。
👉「裸の王様」の語源・意味、現代日本での
使われ方などについてはこちらで
詳しく考察しています。

ぜひご参照ください。

“裸の王様”の意味は言う人によって違う?原作に戻って教訓を考察!

  


自分の物語を現実化し、それを生きている
ハッピーな時期のマゾヒストは、じつは
九分九厘、この意味での「裸の王様」でも
あるのです。

そのことには谷崎自身も自覚的だったはずで、
それは、傑作『春琴抄』(1932)を書き上げた
5年ほど前のエッセイ「日本に於けるクリップン
事件」で自ら解析して見せているとおりなのです。

マゾヒストが喜ぶ「虐待」が心の領域で
「軽蔑」のような形で加えられる場合、
彼はそれを「喜ぶ」のだが、そうは
いっても…と谷崎は論じています。

実のところはさう云ふ関係を
仮に拵へ、恰(あたか)もそれを
事実である如く空想して喜ぶ

のであって、云ひ換へれば
一種の芝居、狂言に過ぎない。

     


第一「心から彼を軽蔑する」女なら彼を
相手にするはずもないし、そんなことは
マゾヒスト自身にもわかっている…と。

つまりマゾヒストは「実際に女の奴隷に
なるのでなく、さう見えるのを喜ぶ」
にすぎないというのです。

故に彼等は利己主義者であって、
狂言に深入りをし過ぎ、誤って
死ぬことはあらうけれども、
自ら進んで、殉教者の如く
女の前に身命を投げ出す
ことは絶対にない。
〔中略〕
彼等は彼等の妻や情婦を、
女神の如く崇拝し、暴君の如く
仰ぎ見てゐるやうであつて、
その真相は彼等の特殊なる
性欲に愉悦を与える一つの
人形、一つの器具として
ゐるのである。

      


いわゆる”女王様”も「真相」は「人形」で
それは「器具」にすぎない以上、子を産むか
どうかの決定権など認められるはずもない……

もしこの論理が『春琴抄』でヒロイン春琴に
拝跪する下僕、佐助にも共有されていたと
すると、春琴もまた「女神/暴君」として
仰ぎ見て喜びながら、現実のレベルでは
彼に愉悦を与えるための人形/器具
すぎなかった…
ということになるのでは?

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春琴に大やけどを負わせて醜くした犯人は
佐助自身だという説もありますが、自分の
喜びをより大きくしていくために、その
人形の美をあえて破壊して苦しめるような
行為に走っても不思議ではありません。
👉マゾヒズム問題を追求した作家として
国際的にも名高い(もう少し長生きすれば
ノーベル賞にも届いたといわれる)
谷崎潤一郎の世界に興味をお持ちの
場合は、こちらの記事もご参照ください。

谷崎潤一郎でおすすめの小説は?絢爛豪華 妖艶な文章美で魅了する10冊

デンジャラス(桐野夏生) のあらすじ 谷崎潤一郎を囲む女たちの執念

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元祖 ザッヘル=マゾッホの世界

さて、そろそろ”Mの元祖”ザッヘル=
マゾッホの世界に入っていきましょう。

すなわち「マゾヒズム/マゾヒスト」の
語源を提供するという栄誉をになった、
19世紀オーストリアの作家レオポルド・
フォン・ザッヘル=マゾッホ(1836-95)。

代表作『毛皮のヴィーナス』(1870)は
特に”M”的な趣味はないという人にも
是非おすすめしたい、”小説の小説”的
小説の傑作です。
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ん? ”小説の小説”とは?

つまりマゾヒズムの世界は谷崎御大もご指摘の
通り、恰(あたか)もそれを事実である如く
空想して喜ぶ
物語的な空間。

     インド神話2e0f0b7b03083d3362c8c6cd759cc379

ですので、小説全体の物語の内部に、より
小さな物語
が作っていかれるのですが、
そういう”箱の中の箱”のような小さな物語は、
相手が途中で舞台(つまりはゲーム)を下りて
しまえば、それでオシマイ…
という危うさをはらんでいます。


たとえば「女王様、私をぶってください!」
というマゾヒストの嘆願は、基本的に、
契約された脚本またはゲームのルールの
枠内でのこと。

で、契約上の「女王様」がそのゲーム
心底から没入してくれれば結構ですが、
実際にはそんなハッピーなケースは
むしろ稀でしょう。

だから、往々にしてそこにいろんな齟齬が
生じ、 いろいろやってるうちにゲーム
その外部との境界が怪しくなってくる。

    

そこで、 え? どっちなんだ?
ゲーム? 本気?

まさか、本気でボクを殺そうとしてんの?

ボクを愛してんの? 
それともその愛もゲーム内のこと?……


こうなってくると、この強烈なサスペンスが
小説をぐいぐい前へ進めますので、読者は
もう面白くてやめられない、しかもイタい…
と特異な芸術世界を堪能することに
なるのです。

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イタリア映画『作家マゾッホ 愛の日々』(1980)と『毛皮のヴィーナス』(1969)

さて、ご本尊のザッヘル=マゾッホ、
およびその日本での出店のような地位に
ある谷崎潤一郎がともども、その作品
のみならず実生活においても執拗に
追求していたらしい、いわゆる
「マゾヒズム」の世界。

そこに濃厚に漂う演技的・劇的・ゲーム的
な要素はすでにご理解いただけたこと
でしょう。

それらの要素はマゾッホ自身が彼の
代表作『毛皮のヴィーナス』にしっかり
書き込んでいたことなのです。

すなわち実際の妻と同じく「ワンダ」と
名付けられたヒロインは、実際にマゾッホと
契約を交わしてサディスト的なご主人様役を
引き受けていくことになります。

      


ただ、小説の視点はあくまで男性主人公の
側にありますので、ワンダが内面で何を
思っているかは見えてきません(そこも
一つのサスペンスになるわけですが)。

そのワンダの内面──悦びもあるにせよ
苦悩が大きく、ついには破局へ──にも
光を当てた映画がF・B・タビアーニ監督の
『作家マゾッホ 愛の日々』(原題:Masoch,
1980、イタリア)でした。
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この映画の11年前にやはりイタリアで
制作されていたのがラウラ・アントネッリ
主演の『毛皮のヴィーナス』(マッシモ・
ダラマーノ監督、1969)。

これもマゾッホの原作を一応なぞっては
いますが、マゾヒズムの追求よりは
ラウラの美しい肢体を愛でることを主眼に
作られた感じの娯楽作ですね。


あのニーチェもハマっていた❔

このようにイタくも楽しいマゾッホ文学の
世界に実はハマっていた(かもしれない)
著名人として、『ツァラトゥストラかく
語りき』などで名高いフリードリヒ・
ニーチェ(1844-1900)の名も浮上します。

1882年ごろのニーチェ(38歳)は友人の哲学者
パウル・レー(33歳)と、ロシア貴族の娘
ルー・ザロメ(21歳)との間で奇妙な三角関係に
入り、一時は三人同居の状態になっていました。

これ(👇)はそのころの写真で、ニーチェは
彼女に求婚するものの、ルーは結局、
レーと二人してニーチェのもとを
去っていったのです。




二人の中年男の恋路を狂わせてしまったらしい
ルーは、レーと同棲を始めますが、5年後には
フリードリッヒ・カール・アンドレアスという
学者との”白い結婚”(性関係を伴わない)に
入り、それから約十年後にレーは投身自殺を
遂げます。

ルーはその後、詩人リルケとの同棲、さらに
50歳を過ぎてからは精神分析の創始者
フロイトに接近し、その弟子たちとの間に
「一妻多夫」の関係を築き、その一人を
やはり自殺に追い込んだ…
文字通りの”宿命の女”(ファム・ファタル)
でした(😻)


それはともかく、上の写真で注目すべきは
ルーが手にしている鞭です。

しかも彼女は荷車の上にいるわけで、
御者の役を演じているのだとすると、
鞭打たれる馬の位置にいるのが
ニーチェその人なのですね。

三人がこのようなポーズで写真を撮る
ことにした動機は不明ながら、10余年前の
話題作『毛皮のヴィーナス』がこれと
無関係ということはありえません。

それどころか、それまで「女性について
何ひとつ知らないことに悩んでいた」
若きニーチェに初めて女性の何たるかを
教えたのはほかならぬこの本だったと
最新の詳細な伝記『ニーチェ伝 ツァラ
トゥストラの秘密』(ケーラー著、1992)
は述べています(邦訳👇 p.197-202)。


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さらにこの伝記によれば、ニーチェとの
経緯から何十年もあと、ルーはいかにも
フロイトの弟子らしい口吻で、ニーチェ
についてこう語っていたとのこと。

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残酷な人間が常にサドマゾヒスト
でもあるかぎり、〔中略〕それは
ひとつの深い意味を持っている──。

私が人生で初めてこのテーマについて
語り合った相手はニーチェだった
(彼自身がサドマゾヒストそのもの
だった)。         (p.505)

      


具体的なことには言及がないので、ルーが
ニーチェのどういう言動を指して「サド
マゾヒスト」と呼んでいるのかは不明です。

ただ、ニーチェの側では晩年の自伝
『この人を見よ』(1888)で、ニーチェが
曲をつけた(ニーチェは作曲もしました)
ルーの詩「生の讃歌」から受けた
「インスピレーション」、その「すばらしい」
部分についてこう語っています。

痛みが、生に対する異議とは
見なされていないのだ。

「生よ、私にくれるほど幸せが
残っていないなら、それもよし!

あなたにはまだ苦痛が
残っているでしょう
……」。
 (「ツァラトゥストラはこう言った 1」
  光文社古典新訳文庫[丘静也訳])


ルーにこそ「サドマゾヒスト」の傾向が
あったのではないかと疑わせる文章ですが、
そこにはまたルーがニーチェの嗜好に迎合
していたという可能性も考えられ、真相は
闇の中です。

それはともかく、ケーラーの伝記で一貫して
前面に出されているニーチェの性的嗜好は、
実はマゾヒズムよりむしろ同性愛でした。

《ニーチェ/ルー/レー》の三角関係
自体が、初めに《ニーチェ/レー》の
親密な関係があったところへ、やがて
レーがニーチェに社会的な対面のための
結婚を勧めるようになり、そこへ降って
わいたのがルーだった…
というストーリーなのです(同書 p.494-506)。

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もっと痛みを!もっと痛みを❣

同性愛はさておき、ここではニーチェの
ルー称賛に痛み(苦痛)の評価というテーマが
絡んでいたことが重要です。

というのも、ニーチェという思想家にとって
「苦痛/苦悩」という動機のもつ重要性は
20代での処女出版『悲劇の誕生』(1872)から
精神病発病前の晩年まで一貫していたから。

つまり『悲劇の誕生』では、古代ギリシア
悲劇の観客は主人公の苦悩と破滅に「カタル
シス」(浄化作用:アリストテレスの説)を
受けるのではなく、それを見守ることに
「いっそう高い、はるかに強烈な快感
予感」する「喜び」を享受していたと
いうのです(岩波文庫[秋山英夫訳]、p.238)。


(画像出典:Freud Quotes


そしてこの快感は、動物としての人間に
備わっている「残酷さにつきものの快感」、
残虐性に昂揚してしまう「本能」=「自然」
なのだという議論がその後の著作で
繰り返されます。

たとえば『曙光』(1881。ルーを知る前)では
苦痛へのよい意志がないなら、われわれは
あまりに多くの喜びを逸するにちがいない」
として「苦しみへの勇気」の必要性を
説いています(354節)。

また後期の『善悪の彼岸』(1886)でも
「悲劇において苦痛なまでの快感をもたらす」
のは人間が生来そなえている「残酷さ」への
志向であり、そのおかげで「自分に苦痛
味わわせるときにも、たっぷりと溢れんばかりの
快楽を享受することができるのだ」
と解析しました。  (229節「残酷さの享受」)

ニーチェのこういう言葉たちが、ルーには
ズバリ「サドマゾヒスト」と映った(というか、
フロイトに学んでそう解釈するようになった)
というのが実情に近いのではないでしょうか。


翌年の『道徳の系譜学』(1887)になると
ニーチェはさらに、キリスト教が根付かせて
きた「禁欲的な理想」の強固さによって、
人々が自身に向けられた残酷さとその苦痛
むしろ求めるようになった…
という経緯を詳述してこう論じます。

人々はもはや痛みをなくして
ほしいと
嘆くことはなかった。

むしろ人々は痛みがほしいと
渇望したのである。

もっと痛みを! もっと痛みを!

彼〔ルター〕の弟子や聖別された
人々は、幾世紀ものあいだ、
こう求めて叫んだのである。
    (第三論文、20節。光文社
    古典新訳文庫[中山元訳])


痛みをあえて求めるこのような宗教的姿勢が
性的な嗜好に転化する場合があっても
なんの不思議もありません。

何世紀にもわたってキリスト教の圧倒的な
支配下にあったヨーロッパにおいて、
日本などよりずっと高い頻度でマゾヒズムが
発生してきたのは理の当然であったように
思われるのです。
👉宗教上の行為としての「苦行」に
なんらかの喜びが伴うとすれば、
そこにはすでに広義のマゾヒズムが
発生していると見ることも可能ですが、
その種の苦行者の極端な例が『ダ・ヴィンチ・
コード』の登場人物シラスに見られます。 👇


この小説・映画の詳細はこちらで
情報提供していますので、ぜひご参照を。

ダヴィンチコード⦅シラスが自分を鞭打つ意味は?⦆小説&映画のあらすじ

     


第三者を導入して嫉妬の苦しみを喜ぶ❔

ここでマゾッホに戻りますと、”女王様”
ワンダとの関係において苦しい喜び
生きるのが『毛皮のヴィーナス』の主人公
ですが、後半ではその苦しみの要因として
嫉妬が大きな比重を占めるようになります。

つまり彼はワンダに別の男と関係を
もつことを勧め、その男への嫉妬
苦しみをも喜ぶのです。

  


すでに見たニーチェの『悲劇の誕生』は
『毛皮のヴィーナス』の2年後に出版
されたものですが、苦悩と破滅
「いっそう高い、はるかに強烈な快感」を
求めるその志向がマゾッホ文学とも
なじみやすいことは明らかでしょう。

これもすでにふれたルー作詞・ニーチェ作曲の
「生の讃歌」は『ツァラトゥストラはこう言った』
(1885)の掉尾に置かれていますので、
その後半だけでも聴いてみましょう。

世界は深い、
昼が思うよりも。
世界の痛みは深い──
歓びは──苦悩よりもなお、深い。
苦痛は言う、去れと。
だがすべての歓びは永遠を欲する。
深い、深い永遠を欲する!
(河出文庫[佐々木中訳])


すなわち苦痛より「深い」ところに
歓びはあって、それは苦痛を包み込んで
いるものだから、苦しむことは同時に
歓びでもある…
という哲学が謳われているものと読めます。

    


哲学はさておき、三人でこんな恋愛を
続けていたとすれば、”女王様”が自分の
思い描いたゲームの内部でそれをして
くれているのか、それとも本気でその男に
惚れてしまったのか分からなくなり、
その分からなさがまた苦しい歓びを更新・
昂進するという、ホントにワケの分かんない
ことになってしまうかもしれませんよね。

ニーチェらここれに似た経緯があったか
否かは不明ですがこんな写真を撮る以上、
あったとしても不思議はありません。
👉ニーチェの恋愛観・結婚観・女性観
などをめぐっては、こちらで原典に
当たりながら考察・解説しています。

ぜひご参照を。

“結婚生活は長い会話である”とニーチェが言ったって本当?出典は?

また《ニーチェ/ルー/レー》の三角関係を
描いた映画に『ルー・サロメ 善悪の彼岸』
(リリアナ・カバーニ監督、ドミニク・サンダ
主演、1977 👇)があり、例の写真の撮影経緯も
描かれていますが、残念ながら
その意味づけは軽薄。

そもそもニーチェの描き方が皮相(俳優も
怜悧に見えないし、年を取りすぎ)ですし、
ルーの心理も不可解にとどまって消化不良を
起こすような作品ではありますが…。


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ルソーの初恋もそれだった❓

イタリアとドイツが出たので、ここで
フランスにも目を向けましょうか。

といってもあのサド侯爵(“S”すなわち
サディズムの語源となった人)では
ありません。

サドと同時代に活躍した思想家、ジャン
・ジャック=ルソー(1712-78)です。

ジュネーヴの時計職人の子に生まれた
ルソーは10歳のころ孤児同然となり、
近郊の村の牧師の家に引き取られますが、
牧師の魅力的な娘、ランベルシエ嬢から
体罰のおどしを受けることもありました。

それはとても怖かったのですが、実際に
受けてみると…

なによりも奇妙なことには、
この罰のため、それを加えた人に
対して愛情を持ったのである。
〔中略〕
苦痛のなか、羞恥のなかにさえも、
官能が混じっていて、そのため
もう一度同じ手によってそれを
経験するのを、恐れるよりは
むしろ願うようになったのである。
   『告白』第1巻(小林善彦訳)


そこに「性の早熟な本能」が混じって
いた証拠として、ルソーは、彼女の
兄から受けた体罰にはなんの悦びも
感じなかったことを挙げています。

   


その後ルソーは恋愛遍歴を重ねますが、
特にこの嗜好に没頭したという
ような話は出てきません。

癖にはならなかったようで、そこが
マゾッホとの違いですが、共通する
のは、少年期に受けた体罰に端を
発していること。

鞭打ちなどの体罰がごく一般的であった
ことも、ヨーロッパでのマゾヒズム
隆盛の一因には違いないでしょう。

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マゾッホの短編「指責め」

さて、ザッヘル=マゾッホに戻りますと、
現代では『毛皮のヴィーナス』ばかりが
断トツの知名度ですが、もちろん他にも
多くの作品を残しています。

ここでは、邦訳短編小説集『残酷な女たち』
から最もマゾ的嗜好の顕著な小説「指責め」
の一部を紹介しておきましょう。

1870年前後、東ヨーロッパの
とある公国でのお話。

政権担当者はC公爵ですが、これは顔も
性格も羊のようなお方で、実質的な
支配者は彼を牛耳る美貌の夫人……
というもっぱらの噂。

この夫人、フランスなど先進諸国の思潮に
敏感で、ドイツの学者や文人とも交流が
あり、「拷問は非人道的であり廃止
すべきだ」という西からの進歩思想を
当国にも導入しようとしています。
   ヴェローナverona-488999_640

ある日、これに反対を唱える大臣、
T伯爵を呼び寄せて説得にかかります。

「拷問は、無実の者に無理やり自白させ
たり、犯していない罪を犯したと言わせる
危険がある」とさかんに説きますが、
ああいえばこう、とT伯爵の反論も頑強。

と、公爵夫人、持ち前の険のある微笑を
浮かべてある道具を取り出していわく、
「こんな子供だましの指責めの道具
使っただけであなたになんでも告白させられる
ことを、これから証明します」

「そんなことは不可能です」と突っぱねる
伯爵に両手を出させ、指責め具をはめるや、
さっそく尋問を始めます。

     

「まずは白状なさい。 あなたは
あたしが好きで好きでたまらず、
心中ひそかにあたしを自分の
ものにしたいと思っている
…と」

「滅相もない」と伯爵は答えますが、
「嘘をおっしゃい」と公爵夫人、
責め具のネジをぐいぐい締めます。

額に玉の汗を浮かべながら黙っている
伯爵を尻目に、公爵夫人は微笑を
浮かべてネジに力を加えます。

「お妃さま、おゆるしを!」

ついに音(ね)を上げた伯爵に
公爵夫人は平然と
「そう、それじゃ、あなたは
あたしが好きで好きでたまらず、
心中ひそかにあたしを自分の
ものにしたいと思っている
…のね?」

「そ、そのとおりです。でも……うぐ……」
「では次! あなたはあたしの主人、
C公爵を羊そっくりのウスノロの
ボケナスだと思ってる
…わね?」

    0e4c5e2acb18d348bfe508da836a5955_s

黙っていると責め具はまた強度を増しますので、
「そ、そのとおりです。でも……うぐ……」
「では次!」

とまあ、こんな具合で結局、伯爵は何から
何まで公爵夫人の意見に同意させられ、
「拷問廃止」は見事、この公国の
施策となったのです。

メデタシ、メデタシ。

楽しんでいただけましたか?

責め苦から解放されたい一心で公爵夫人の
言葉をオウム返しにしているだけなのか、
それとも案外、心の底の本心を吐露して
いる……、その機会をうまく与えられた
ということではなかったのか……

この”❓”が一つのサスペンスになっていく
あたりや、「拷問廃止」の実施を拷問を
もって勝ち取るというアイロニー(皮肉)に、
マゾッホの面目が躍如としています。


まとめ

さて、いかがでしょう。

マゾヒズムとそれにまつわる諸問題に
ついて、楽しみながら学んでいただく
ことができたでしょうか。

マゾ的な世界を展開した作家として
日本からは代表選手として谷崎潤一郎
のみの紹介となりましたが、ほかにも
たとえば江戸川乱歩の名が挙がる
でしょう。

この方面での乱歩の代表作としては
『陰獣』『芋虫』『D坂の殺人事件』
などがありますね。
👉それらの作品についてはこちらで情報提供
していますので、ぜひご参照ください。

江戸川乱歩 陰獣のあらすじ:ネタバレ御免で結末まで

芋虫(江戸川乱歩)のあらすじ:伏字だらけの問題作!内容は?

江戸川乱歩 孤島の鬼はBLの世界)))ネタバレありで結末まで

     

江戸川乱歩 人間椅子のあらすじ(ネタバレあり)とその解釈

パノラマ島奇談[奇譚]乱歩最高作(?)あらすじをネタバレ御免で

👉当ブログでは、谷崎、乱歩のほか
にも多くの作家・作品をとりあげ
「あらすじ」や「感想文の書き方」の
記事を量産しています。

こちらのリストをどうぞご覧ください。

「あらすじ」記事一覧

「感想文の書き方」一覧



いかがでした?

この世界、あんまりのめり込むと命も
危ないようですが、まあほどほどに
楽しみながら、ともかく頑張って
やりぬきましょー~~(^O^)/



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