アンナカレーニナのあらすじ 原作本と映画(2012)【相関図つき】
キーラ・ナイトレイ主演
『アンナ・カレーニナ』
(2012)は、華麗にして
官能的…
でしたね。
劇場で競馬をやって、
舞台から客席に馬が
落ちて来るには度肝を
抜かれました(
凝りに凝ったジョー・
ライト監督の逸品です。
私には”?“だったん
ですが、もっとついて
行けなかったのは、
終盤でアンナが鉄道自殺
する展開の唐突さ。
どういう事情で死ぬしか
ないところにまで追い
込まれたのか…納得の
行かない死でした。
捨てましたね。
なにしろ原作は総計2000
頁もある大長編小説。
後半のアンナは心を病ん
でいるようでもあり、
周囲の人々それぞれの
心理に立ち入りながら
物語は一進一退でじわ
じわと進んでいくので、
自殺もわからなくない。
でも2時間の映画では
とても付きあいきれ
ないんですよ;^^💦
早く跳び込まれると
アレッ……て感じで、
感動もイマイチ…
するなら、1997年映画
の方がオススメですよ。
かなり生真面目に原作の
流れを追っていて、
幼さを残すソフィー・
マルソー(アンナ役)の
顔立ちが悲劇をいっそう
痛切なものに見せて
います。
見なくっちゃ…
でもその映画の良さも
原作がどうなってる
のかを知らないと理解
しきれないのかな?
ありますね;^^💦
これからいっしょに
原作のあらすじを
たどっていきましょう。
というわけで、おなじみ”あらすじ”暴露
サービスの第183弾(“感想文の書き方”
シリーズ第260回)は世界文学史上に
燦然と輝くトルストイの傑作長編小説
『アンナ・カレーニナ』(1875-78)!
映画化も数多く試みられ、英語による
もので少なくとも5作、ロシア語で
3作以上が知られています。
主演してきたのはいずれもその時代を
代表する美人女優で、なんと2作で
主演したグレタ・ガルボ(1927,35)を
筆頭に、ヴィヴィアン・リー(1948)、
ソフィー・マルソー(1997)、キーラ・
ナイトレイ(2012)と続きます。
この錚々たるお名前の列にBBCドラマ
(1977)の二コラ・パジェット、
さらには2019年宝塚歌劇公演の
美弥るりかさんを加えろという声も
あがるかもしれませんね。
それらの映画の予告編動画を
まずは最新の2012年版からご覧ください。
カレーニナ ヴロンスキーの物語』は
アンナ死後(日露戦争時代)の後日談
ですので、お間違えなきよう;^^💦
ごく簡単なあらすじ(要約)
さて、全巻(文庫本で3~4冊)揃えて購入したはいいが、結局おしまいまで読み切れず
中途で挫折したという人の多い、悩ましい
大小説がこの『アンナ・カレーニナ』。
読みにくさの一因は、アンナとヴロンスキー
の愛という《主筋》のほかに、リョーヴィン
という男の人生物語という《副筋》があって、
両者が接点をもちはしながら、わりあい
無関係に並走していく…
という形をとっていることでしょう。
《副筋》といっても”リョーヴィン・
パート”は分量が大きく、あるいは
こちらの方が《主》なのでは?
と思えるほど。
しかも往々にして理屈っぽくなりますので、
恋愛物語だけを期待している人はついて
行けなくなってしまうのですね。
ですので、わかりにくさを避けるには
まずこの2パートを分けて理解する
のが手っ取り早いでしょう。
そこで下記の「ごく簡単なあらすじ」では
《主筋》と《副筋》とを完全分離して
みました。
つまり、こんな感じですね。
高級官僚カレーニンの美貌の妻、
アンナは青年将校ヴロンスキーと
恋に落ち、愛息を連れての離婚を
望むものの、夫はこれに応じない。
愛人関係のまま、生まれた赤ん坊を
つれてイタリアへ移住し、やがて
ロシアへ戻る。
世間から厳しい目を向けられる
アンナは心を乱し、ヴロンスキー
との間の葛藤も激化し、ついに
鉄道自殺を遂げる。
BBCドラマ『アンナ・カレーニナ』(1977)DVD
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《副筋》
アンナの義妹キティは、ヴロンスキー
への一時的な恋のゆえに、地主貴族
リョーヴィンの求婚を断る。
ヴロンスキーへの失恋から病気になった
ものの、回復とともに真の愛に目覚め、
リョーヴィンに嫁ぐ。
夫となったリョーヴィンは農業経営の
研究と実践にいっそう打ち込むと
ともに、兄妹や友人たちとの議論を
通して自らの人生観を鍛え上げていく。
ま、ザっとそういうことなんです。
ん? いちおう話はわかったけど、
これではどこが面白くて、どう名作
なのか、サッパリわからん┐( ̄ヘ ̄)┌?
当然そうなりますよね。
というわけで、ここはどうしても
「かなり詳しいあらすじ」の方へ進んで
いただかなくてはなりません;^^💦
かなり詳しいあらすじ
それでは参りましょう。恋愛物語だけを読みたい人は《副筋》
すなわち”リョーヴィン・パート”は
すっ飛ばす…
というのも一つの手ですが、それをやると、
細かい筋や人物関係がわからなくなって
しまう恐れもありますね。
そこで、読んでいくうち迷子にならないよう
「登場人物相関図」を作成しておきました
ので、下記の「あらすじ」を読む場合、
あるいは原作に挑戦する場合も、必要に
応じてご参照ください。
💓は相愛、💔は片思いまたは破綻を示します。
なにしろ【第一部】~【第八部】の8部構成
という大長編ですから、上図に出ていない
人物も多数で、それぞれに恋愛を含む多様な
人間ドラマを抱えていたりします。
以下の「あらすじ」では「詳しい」とは
いっても、そのすべてに言及することは
できていませんので、あしからず
ご了承ください。
もちろん原作に準拠し、映画で改変されて
いる部分などには👉印のところで
注釈していきます。
「細かいことはいらない」という方は
飛ばしてもらってかまいません。
「 」内や「”」印の白い囲みは最新訳で
各巻の解説等も充実している望月哲男訳
(光文社古典新訳文庫、2008)からの引用。
👇
【第一部】
幸せな家族はどれもみな
同じようにみえるが、
不幸な家族にはそれぞれの
不幸の形がある。
👉あまりにも有名な冒頭の一文。
名言としてよく引用されるものなので、
知っておいて損はありません。
直接にはオブロンスキー一家(アンナの
兄一家)の「不幸」を指していますが、
それが同時にカレーニン家(アンナの
嫁ぎ先)の「不幸」をも暗示していた
ことがやがて明らかになっていきます。
1870年代のモスクワ。
アンナの兄、スティーヴァ(ステパン・
オブロンスキー公爵)の浮気が発覚し、
妻のドリー(ダリヤ・オブロンスカヤ)
とは危機状態。
地主貴族コンスタンチン(コースチャ)・
リョーヴィンは親友のオブロンスキーと
食事し、ドリーの妹で18歳のキティ
(カテリーナ・シチェルバツカヤ)への
求婚への意志を告げる。
オブロンスキーは喜び、励ますものの、
キティは今、アレクセイ・ヴロンスキー
伯爵・大尉に夢中で、母親も彼を推して
いることなどを告げる。
そのヴロンスキーも来ている夜会で、
リョーヴィンは思い切ってキティに
求婚するも、「それはできません」
と断られる。
👉ロシア人の名前について、念のため説明
しておきますと、女性の姓は、たとえば
「オブロンスキー」の妻や娘であれば
「オブロンスカヤ」、「カレーニン」なら
「カレーニナ」という風に変化します。
名前も愛称にいろんな変化形があって
(カテリーナならカーチャとか)ややこしい
のですが、この時代の貴族社会の流行なのか、
この小説では「キティ」「ドリー」など
英語風の愛称で呼び合うことが多いようです。
アンナは20歳年上の大物官僚アレクセイ・
カレーニンに愛もなく嫁いで8年余。
兄夫婦の危機を案じて汽車でモスクワへ
向かい、その車室でヴロンスカヤ
伯爵夫人と知り合う。
この夫人を駅に迎えに来ていたのが
息子のヴロンスキーで、彼とアンナは
互いに一目で惹かれ合ってしまう。
その時、事故が起こり、この二人や
アンナを迎えに来ていたオブロンスキー
らは警備員の轢死を目撃する。
👉アンナの無残な死に様への伏線として
置かれていることは明白です。
アンナの仲裁でオブロンスキー夫妻の
仲は一応、小康状態に。
翌週の舞踏会でヴロンスキーと顔を
合わせたアンナは、踊ってほしいと強く
求められ、ためらいながらついに応じる。
二人の息の合った踊りぶりを見て
キティは心をかき乱される。
翌日、ペテルブルグ行きの列車に乗った
アンナはヴロンスキーも乗車している
ことに驚く。
どうしてもこうしたかったと言う
ヴロンスキーに「いけないことです。
忘れてください」とアンナ。
ペテルブルグ駅でカレーニンの出迎えを
受けたアンナは、帰宅して8歳の愛息
セリョージャとの生活に戻る。
夫については「やっぱりあの人はいい
人だわ」と思う一方で「どうしてあの人の
耳は変に突き出しているのかしら?」
などと、これまで意識しなかったことが
気になってくる。
👉ヴロンスキーとの出会いによって
アンナの意識(&無意識)に変容が生じて
しまっていることの、さりげない
表現でしょうね。
映画ではもちろん無理(耳の形で役者を
選ぶにもいかず)なので、スルー。
【第二部】
ヴロンスキーに見捨てられる形になったショックから、キティは病気になり、
シチェルバツキー一家は転地療養の
ためドイツの保養地へ。
アンナとヴロンスキーはペテルブルグの
社交界、特にヴロンスキーの従姉に当たる
ベッツィ公爵夫人の家でよく顔を合わし、
話すようになる。
「あなたのしたことは悪いことです」、
モスクワへ戻ってキティに許しを求めて
と諭すアンナに対し、それがホンネで
ないことを見抜いているヴロンスキーは
「あなたはぼくにとって命そのものです」
などと愛をささやく。
そんな場面に来訪して鉢合わせもした
カレーニンは帰宅後、「たしなみに外れた
振舞い」はやめるようにと警告し、
アンナはこれに反発する。
ヴロンスキーとの関係を深めていき、
「何もかも終わったわ。わたしには
あなたのはかには何もない」と
アンナは恋人に告げる。
👉肉体関係の成立を示す部分(11章)。
現代小説なら露骨なベッドシーンなしでは
すまないところですが、19世紀の小説では
なかなかそうは行きません;^^💦
少し前のフランスではフローベールの
『ボヴァリー夫人』(1857)が風紀紊乱の
罪で起訴されていましたし…。
映画ではもちろん2作ともここが前半最大の
山場になってきます。
かなり豊満な肢体で迫ってくるソフィー・
マルソーから見ると、自他ともに認める
“貧乳”のキーラ・ナイトレイの不利は
否めませんが、そこはジョー・ライト監督の
巧みな演出とカメラワークにより、見事に
官能的な仕上がりとなっています。
ライト監督とキーラのこの芸術的コンビ
ネーションは7年前の傑作『プライドと偏見』
の再来と見ることもできます。
この作品をめぐってはこちらを
ご参照ください。
・プライドと偏見(映画)のあらすじ//美しすぎるヒロイン、原作では?
またキーラが美貌だけの女優ではなく
その演技力においても一級であることは
準主役をつとめたこの映画でも立証
されました。
ぜひこちらもご参照を。
・わたしを離さないで 原作と映画の違い//トミーの癇癪に潜む意味とは?
リョーヴィンは領地の農場の近代化に
取り組み、その成果を著作に著そうと
努力を続ける篤実な地主貴族。
その領地へ、実は経済的に破綻している
オブロンスキーが来訪し、森林売却に
よる金策で協力してもらう。
ヴロンスキーは将校らが競う競馬に備えて
いたが、アンナから妊娠を告げられ、
二人で出奔しようという決意を強くする。
競馬がスタートし、愛馬フルフルで
快調に先頭を走っていたヴロンスキーだが、
水濠でミスを犯し、馬は転倒して背骨を
折ってしまい、射殺の処置が決まる。
👉映画では2作ともヴロンスキー自身が
その場で拳銃により愛馬を射殺しますが、
原作にその経緯はありません。
映画では、展開を早めるということのほかに
ヴロンスキーが結果的にアンナも死なせる
ことになるという未来の暗示が意図されて
いるのかもしれません。
競馬場に来ていたカレーニンは、
恋人の落馬にひどく動揺するアンナを
目撃しており、帰宅後、これを
「はしたない」と非難する。
「誤解なら謝るが」と言うカレーニンに、
アンナは「誤解じゃありません」、
今も「あの人のことを考えているのです。
あの人の愛人なのです」、私のことは
「好きにしてください」とぶちまける。
カレーニンは「とりあえず表向きの
対面は保つ」よう要求する。
ドイツで療養していたキティは
完治してロシアへ帰国。
【第三部】
リョーヴィンは農民らに交じっての作業で汗を流すこともあり、草刈りで
「忘我の時を味わう」時こそが彼にとって
「最高に幸せな瞬間だった」。
そんな時はすでに手が鎌を振って
いるのではなく、鎌の方が主人と
なって、自意識を備え、生命に満ちた
彼の体を率いて動かしているのであり、
しかも何か魔法のように、あえて
仕事のことを考えずとも、正しくて
正確な仕事がひとりでになされ
ていくのだ。Sponsored Links
👉リョーヴィンのこういう姿は2作の映画とも
しっかりと描き出すことで作品に奥行きを
与えています。
ところでこの部分にはわが夏目漱石も
感銘を受けてメモを残しています。
(『漱石全集』20巻、530頁)
漱石の小説『三四郎』では、主人公の
三四郎が若い女の轢死を目撃し、その夜、
同時刻に自分の気になっている女性も
死んでいるという夢を見ますが(三章)、
この展開も『アンナ・カレーニナ』に
ヒントを得ている可能性があります。
『三四郎』についての情報はこちらで。
・夏目漱石 三四郎のあらすじ 簡単/詳しくの2段階で解説
5月にはドリーが来訪。
夏にはここで合流するという
キティの問題を話し合う。
キティのヴロンスキーへの気持ちは
彼女の「プライド」から来る一時的な
感情にすぎず、深いところでは以前から
あなたを愛し続けているのだ…
とドリーは熱心に説く。
アンナに接近して1年を経たヴロンスキーは、
この関係も世間周知となったため、幼時
より育んできた「功名心」を放棄して
しまえるかどうかの問題に悩む。
出世で先行している既婚の旧友、
セルプホフスコイに会うと、彼は女は
「男の活動にとっていちばんの躓きの
石だ」という独自の女性観を述べる。
たとえ何千人の女を知るよりも、
愛する妻を一人知ることに
よってこそ、すべての女が
よくわかるんだよ。
〔中略〕
女はみんな男より即物的だ。
われわれは恋愛を何か大事のように
考えたがるけれど、女にとっては
日常茶飯事(テール・ア・テール)
なのさ」
👉これらもよく知られた名言。
「日常茶飯事(テール・ア・テール)」の原語は
“terre à terre”というフランス語。
英語なら”earthbound”、”down to earth”
などの表現がこれに相当し、要するに
「地に根付いている」といったところ。
ヴロンスキーとの合意のもと、アンナは
カレーニンに離婚を申し出るが、
夫は応じない。
【第四部】
袋小路に入ってしまった形のアンナとヴロンスキーは、お互いに対して
嫌悪感を抱くような場合も出てき、
アンナは自分が死ぬ夢も見る。
カレーニンはアンナとの激しい口論の末、
自分はモスクワへ行き、この家には
戻らないから、離婚訴訟についての
通知を待つように申し渡す。
「セリョージャは私に」というアンナの
嘆願を振り切り、あくまで「息子は
こちらで引き取る」と宣言。
現在のモスクワ
カレーニンはモスクワで著名な弁護士と
離婚の相談後、オブロンスキーから
受けた招待に応じて、同家の晩餐会へ。
リョーヴィンらも来ているそのパーティで
ドリーに問われてアンナの現状を話す。
驚いたドリーは、離婚は女の「破滅」なので
私も思いとどまった、「あなたもお許しに
なって」と嘆願する。
カレーニンは「あの女だけは心底憎い」
とこれを拒否。
同じパーティで、リョーヴィンと
キティはお互いの愛を確かめ合う。
ホテルに戻ったカレーニンにアンナから
「シニカケテイマス」との電報。
ペテルブルグへ急行すると、
アンナはヴロンスキーの子を出産後、
危険な状態。
現在のペテルブルグ
夫の手を取って「わたしの中にもう一人の
女がいるの。わたしその女が怖い」などと
うわごとめいたことを言い、カレーニンは
突然、それまで経験のなかった
「幸福感」を感じる。
「敵への愛と許しの喜ばしい感覚」に
満たされたカレーニンは、アンナの腕に
頭をつけて子供のように泣きだす。
「苦悩と恥」から両手で顔を覆っている
ヴロンスキーに、アンナは「この人を見て。
この人は聖人よ」と言い、カレーニンには
「あの人と握手をして。そうして許して
あげて」と命令するように言う。
二人の男は涙に濡れながら握手。
カレーニンは「許すことの幸福感」が
「自分の務め」を見出させた、それは
妻とともにいることだ、妻があなたに
会いたい時は知らせるから…
とヴロンスキーに告げる。
👉カレーニンもまた深みのある人物として
作者に愛されていることをよく示す場面。
「公務という鏡に映った人生の影だけを相手に
してきた」男が初めて「生(なま)の人生」
という「深淵」を覗いて混乱し(【第二部】
8章)、滑稽な「キンキン声」も出してしまう。
映画のジュード・ロウ(2012年版)、ジェイムズ
・フォックス(1997年版)はともにハンサム
(または元ハンサム)で堂々としており、
カレーニンのこの(深い苦渋に満ちた)滑稽さを
体現するには至っていません。
カレーニンの目に崇高なものを見て感動して
いたヴロンスキーは、「相手の崇高さと
自分の惨めさ」に心を乱し、衝動的に
拳銃自殺を図るが、未遂に終わる。
生まれた女児は母と同じアンナの
名をつけられ、アニーと呼ばれる。
2か月後、健康を回復してきた
アンナは、夫をやはり不快に感じる。
カレーニンは、オブロンスキーの説得を
受けて離婚を申し出るが、アンナは息子を
手放せないことなどから、これを拒否。
出世欲を捨てて退役したヴロンスキーと
アニーとともにイタリアへ旅立つ。
【第五部】
リョーヴィンと結婚し、領主夫人としての生活を始めたキティは、やがて妊娠する。
アンナとともにイタリアの町に住みついた
ヴロンスキーは、画家で自由思想家の
ミハイロフと親しくなり、自分も
絵を描き、腕を上げていく。
が、やがて限界を感じ、二人はロシアへ
戻って田舎に引っ込むことに決め、
その前にペテルブルグに寄ることに。
カレーニンはもともと孤児で、大物官僚
だった伯父の支援によって今日の地位を
築いた孤独な男であり、妻に去られた
今は腑抜け状態。
その心の隙間に入り込んで来たのが、
特殊な信仰をもつリディヤ・イワーノヴナ
伯爵夫人で、セリョージャの養育も
彼女に牛耳られるようになる。
そのリディヤにアンナは、息子に会わせて
ほしいという手紙を書くが、返答は教育上・
信仰上の疑問があるので断るというもの。
侮辱されて負けん気を起こしたアンナは
次の日(セリョージャの10歳の誕生日)、
強引に夫の家へ行き、召使らを買収して
息子に会う。
ペテルブルグを早く出たいと言うのに
「もう少し待って」と煮え切らない
ヴロンスキーに対し、アンナは
「心変わりしたんじゃない?」
という怒りの言葉さえぶつける。
イタリアの歌手パッティを聞きに行こう
という誘いを受けたアンナは、
ヴロンスキーが止めるのも振り切って
観劇に出かけるが、隣席の婦人から
「わたしなんかの隣に坐るのは恥だ」
と言われてしまう。
アンナはヴロンスキーに「あなたが、
全部悪いのよ!」と当たり、口論に。
翌日、仲直りした二人は田舎へ旅立つ。
【第六部】
縁者らの滞在で賑やかなリョーヴィンの領地に、キティらの又従兄(またいとこ)の
美青年、ヴェスロフスキーが加わる。
社交界では許容範囲のことと見なしてか、
人妻であるキティに色目を使うので、
腹に据えかねたリョーヴィンは、
「お引き取り願いたい」と直言して
彼を退去させる。
ドリーはそこを発ってアンナを訪問し、
再会を喜び合う。
室内の贅沢趣味や、アンナが赤ん坊の
新しい歯などに無頓着なこと、また彼女の
「新しい特徴」になっている「若い女性の
ような媚態(コケットリー)」に「不快な驚き」を
感じる。
が、その反面…
概して自らは非の打ち所のないほど
道徳的でありながら、道徳的生活の
単調さに辟易している女性たちに
よくあるように、彼女は罪深い恋愛を
許していたばかりか、それを羨んで
さえいたのだ。
ヴロンスキーの気取らない態度も気に入り、
アンナが好きになったことにも納得がいく。
そのヴロンスキーはこの土地に来て
6か月で、いくつかの公共団体の
役員を務めているという。
ヴロンスキーとセリョージャ…
「わたしが愛しているのはこの二人
だけなのに、この二人は両立しない
のよ」とアンナはドリーに語る。
キティの出産を控えたリョーヴィン
夫妻はモスクワへ移住。
【第七部】
リョーヴィンはモスクワの貴族クラブでヴロンスキーに遭遇し、互いに出会いを
喜び合う。
そこにいたオブロンスキーに「アンナは
今、児童書を書いている。これから
会いに行こう」と言われ、いっしょに
行く。
アンナは「美の極致を体現」するような
美貌に「新鮮な魅力」を加えており、
またその話しぶりには気負いがなく、
リョーヴィンはたちまち魅了されて
「そうだ、これが女性ってものだ!」
と思う。
アンナの「興味深い話」にうっとりと
耳を傾けるリョーヴィンは…
かつてあれほど厳しく彼女を
非難していたくせに、今では
何か不思議な論理によって、
彼女を弁護すると同時に、
ヴロンスキーが十分に彼女を
理解していないのを惜しみ、
危惧するありさまだった。
そのアンナは、ヴロンスキーの愛が全的に
自分に注がれていると実感できないため
不満をぶつけて口論になることもしばしば。
彼の方から手を差し伸べてくる場合も、
その「和解への誘い」を嬉しく思いながら…
だが何か不思議な悪の力が、
その誘いに乗ることを許さなかった。
あたかも戦いという状況が、
相手に降伏するのを許さぬ
かのようであった。
オブロンスキーはカレーニンに改めて
離婚への同意を懇願するも拒否され、
セリョージャもまた、一切を受け付け
ない頑なな態度を示す。
アンナは、以前からの懸案であった、
田舎へ移る日をヴロンスキーが延期
しようとすると「愛がないのよ」と
怒りだし、これに対しヴロンスキーも
「我慢にも限界がある!」と叫ぶ。
一人になってから「そうだ、死ぬんだ!」
と思いついたアンナは、翌日、仲直りが
できてからも、この想念に捉えられ続ける。
死こそ彼の心に自分への愛情を
よみがえらせ、彼を罰し、自分の
心に住み着いた悪霊と彼との間に
行われていた戦いに勝つための
唯一の手段だった。
翌朝また口喧嘩となり、「もう我慢が
ならない」と口にしたヴロンスキーに
「きっとこのことを後悔するわよ」
と言い残してアンナは出て行く。
オブロンスキー家でドリーとキティに挨拶
した後、胸に「漠然とした怒りと復讐欲を
感じながら」、駅か村で「ひと騒動起こし」
てから鉄道で最初の駅まで行こうと決める。
駅に着き、プラットフォームを進んで
いると、貨物列車が近づいて来る。
そして突然、初めてヴロンスキーに
出会った日に記者に轢かれた男の
ことを思い出すと、アンナは自分が
何をするべきかを悟った。
〔中略〕
「あそこの、ちょうど真ん中に
跳び込むんだ。
そうすればあの人を罰して、
そしてみんなからも、
自分からも自由になれるんだ」
【第八部】
2か月後、露土(ロシア-トルコ)戦争(1877-78)に志願したヴロンスキーが
出征する。
「ぼくはこうして自分の命を
捧げる目的ができたのを
喜んでいます。
命はぼくには不要というよりは、
もう冷めてしまったのです。
でも、誰かの役には立つ
でしょうから」
そのヴロンスキーとアンナにじかに接して
きたリョーヴィンは、著名な文筆家や
大学教授、また反体制的な政治活動に
生きて死んだ兄らとの議論を
繰り返してきた。
「自分が何者か、なぜここにいるのかを
知らないで、生きていくのは不可能だ」と。
そして科学的知識と「理性」によって、
「無限の空間の中に」生まれては消える
「泡のような有機体」がおれだと考えて
いたが、それは「恐るべき誤り」である
ばかりでなく「何か悪しき力の忌まわしき
嘲笑」だとわかった。
「何が正しいのか」の認識は実は
「理性」で説明できないところの
「おれ自身も自分のうちに感じている、
善の法則」だ。
今やおれの生が、おれの生活の
全体が、わが身がどうなろうと
関係なく、どの一分間をとっても、
単にかつてのように無意味でない
ばかりでなく、疑いようのない
善の意味を持っている。
しかもその善の意味を自分の
生活に付与する力が、
おれにはあるのだ!
👉【第八部】は他の部より短いとはいえ
100ページ以上の長さがあります。
そのほとんどがリョーヴィンの人生観の
記述にあてられ、難解といえば難解なので、
読み飛ばされてしまいがち。
映画ではもちろん切り捨てです。
でも本当はこの結論部をしっかり読まないと
文豪トルストイの表現しようとしたものを十分に
受け取ることは出来ないはずなんですね。
リョーヴィンの考えはほぼそのまま作者自身の
哲学であったと思われますが、その後、
トルストイには「転回」が訪れ、このころの
思想を自ら否定することに。
その「転回」後の思想をまとめた本が
『人生論』ですが、読んでみるとその中身は
この【第八部】の思想を完全にひっくり
返しているとは受け取れず、基本線は
保たれていることがわかります。
👉その内容に立ちいって理解したいと
思われる方はこちらの記事をご参照ください。
・人生論の名言!トルストイの12の言葉をつないで”幸福”を理解しよう
トルストイ(1828-1910)
まとめ
さて、いかがでした?
それぞれの時代を代表する美人女優を擁し、
いくども映画化・ドラマ化が試みられて
きた文豪トルストイの名作長編小説
『アンナ・カレーニナ』!
だいたいどんな世界かはおわかり
いただけたのではないでしょうか。
そしてなんといっても最新作。
芸術派、ジョー・ライト監督の手腕により
その美貌と演技力に磨きのかかった
キーラ・ナイトレイの素晴らしさ…
ところでトルストイの長編小説といえば、
もう一つ忘れてならないのが、
『アンナ』以上の長さをもつ
約10年前の大作『戦争と平和』。
こちらの映画化はそう多くありませんが、
なんといっても忘れ難い記念碑的大作が
オードリー・ヘップバーン主演による
1956年映画ですね。
👉この映画およびトルストイの原作については
「あらすじ」を含め、こちらで詳しく
情報提供しています。
・戦争と平和(映画&原作小説)のあらすじ【登場人物相関図つき】
👉ついでのようで恐縮ですが、当ブログでは
オードリー・ヘップバーン主演による
他の映画についても、惜しみなく
情報提供しています。
オードリー・ファンの方はぜひ
覗いてみてください。
・マイフェアレディのあらすじを簡単に//辛口の原作はマザコン物語?
・ローマの休日のあらすじを簡単に&詳しく【英語リスニング付きで】<
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