散見される?散見する? 正しい意味・使い方を鴎外・漱石…太宰に聞く
むずかしいですね。
意味は一応わかるん
ですが、「散見される」
っていうのかと思って
たら、「散見する」と
書く人もいるん
ですね。
正しい用法ですよ。
でもホラ、『Weblio
辞書』にはこうあり
ますよ~。」
そんなあ(((゜д゜;)))
というわけで、本日は「散見される」と
「散見する」で、日本語として
もともと正しいと見なされてきたのは
どっちなのか、きっちり決着を
つけたいと思っているんです。
というわけで、内容は以下の通り。🌼 🌼 🌼
主語になるのは「人」でなく「物」
まず現在、最も信頼に足る国語辞典と思われる『日本国語大辞典』(小学館、
2006)を覗いてみましょう。
「散見」の意味はこう定義されています。
あちこちに見えること。
ところどころで目に触れること。
これによって「散見される」を語釈すれば、
「あちこちに見えられること」、
「ところどころで目に触れられること」
なんですから、そんな日本語ねえだろ!
という話になりますよね。
要するに、この辞書の定義からわかるのは
「散見」が動詞の形をとる場合、その
主語になるのは「物」であって
「人」ではないこと。
だから「見」の字があっても、それは
人が主体的に「見る」ことではなく、
逆に事物が客体として「見られる」事態を
いっているということですね。
だからそれにさらに一つ「れる」がつく
というのは、とてもおかしな話に
なってくる。
「散見される」と書く人はこの文法を
共有していない(理解していない、
またはあえて違反している)という
ことになるんじゃないでしょうか。
でも、でも……
話はそう簡単でもないようなんです;^^💦
「散見される」も辞書が認める?
驚いたことに、Web上の総合的辞書である『Weblio辞書』には「散見される」が
正統な日本語として項目化されて
いるのです。
『Weblio辞書』内の「実用日本語表現辞典」
と「日本語活用形辞書」には、それぞれ
こうあります。
読み方:さんけんされる
ところどころに在ることが
目に付くさま。
「散見する」とも言う。
読み方:さんけんされる
サ行変格活用の動詞「散見する」の
未然形である「散見さ」に、
受身・尊敬・自発・可能の
助動詞「れる」が付いた形。
ア、ア”~~Σ(・□・;)……つまり
「散見される」はすでに辞書によって
お墨付きを与えられちゃってるんですね。
で、その文法的根拠としては、
「散見する」に受身・尊敬・自発・
可能の助動詞「れる」が付いた形
だとのこと。
でも「散見する」という動詞の意味が
上記『日本国語大辞典』の定義のとおり
だとすれば、これにつけられる助動詞
「れる」の意味は「受身」でも「尊敬」
でも「可能」でもありえませんよね。
(主語は「人」ではないんですから)
かろうじて「自発」なら考えられなくも
ない、ということになるんでしょうか?
もしそういうことなら、ここはたんに
「自発の助動詞「れる」」と書く方が
親切というものではないですかね、
プンプンε=ε=ε=(=`(∞)´=)。
「散見する」に×がつく?
以前の記事で、「すべからく」を「すべて」の意味で使うのは誤りだから、入試の
小論文などでこれをやるのは論外だ
というようなことを書きました。
👉その記事はコチラ。
・すべからくの意味・使い方?安倍晋三氏ほか錚々たる知識人も誤用
でもこうなってくると、「散見される」
は誤りだから書くな、ともいえない
雰囲気ですね。
実際、現在では「散見される」と書かれた
文章は、「散見する」と書いたものより
圧倒的に多いようですし、入試の採点者は
たいてい大学教員ですが、その多くも
平気で「散見される」と書いています。
となると、なまじ「散見する」なんて
正しい日本語を書くと、誤りと見られて
減点されてしまう……
なんて嘆かわしいケースも決して
想定されないわけではありません。
なので、受験生への最も良心的な
アドバイスは、下記のようになる
だろうと思います。
とも書くな。
・書きたい場合は、別の表現を考える。
(類義語で代用する)
そんなら、別の表現(類義語)には何が
あるか、ですって?
そうですねえ……たとえば、動詞としては
- 見受ける
- 見受けられる
- 見かける
- 目につく
などを用い、これに必要なら、その
「見られる」度合い・状況に応じて
などの副詞をつけていくのが
よろしいんじゃないでしょうか。
この方が、きめ細やかな表現の
可能性も広がりますよね。
鴎外・漱石は「散見される」
とは書かなかった
ところで、「アタラシイ」という日本語が正しくないという人はいないと思いますが、
語源をたどるなら、これはもともと
「アラタシ」(新たし)と「アタラ」
(可惜)とが混同されてできた間違いの
日本語だったわけで、誤りがいつか
正しいことにされてしまった例ですよね。
これと同じようにして、正しくないはずの
「散見される」も正しい日本語として
市民権を獲得しつつあるというしか
ないんでしょうかね┐( ̄ヘ ̄)┌
でも私個人としては、「散見される」
には抵抗したいと思ってるんです、
命ある限り……。
上記『日本国語大辞典』の「散見」の
項は、森鴎外の『舞姫』に例文を
求めています。
幾百種の新聞雑誌に散見する議論には…
鴎外先生が「散見される」なんてヘンな
日本語を書かれるはずの訳もないことは、
ことさらに申すまでもないはずの訳の
コンコンチキであります(ヘンな日本語;^^💦)
👉鴎外先生の美しい日本語をめぐっては、
こちらの記事もご参照ください。
・森鴎外 舞姫でレポート・感想文:若き漱石・子規の反応は?
・高瀬舟の感想文/批評文どう書く【400字/800字の例文つき】<
・山椒大夫(森鴎外)のあらすじを簡単に//原作説話・映画との違いは?
鴎外と来れば忘れちゃならいのが
漱石先生ですが、『文学論』には
この用法が、それこそ散見します。
香の文学上に散見するは元より
枚挙に遑(いとま)あらず。
此種の具体的一般真理を最も多量に
散見するは恐(おそら)く、
世界文学中Don Quixote(ドン・
キホーテ)の右に出づるもの
あらざるべく〔下略〕
(以上第一篇第二章「文学的内容の基本成分」)
西洋の詩家はかかる不都合の感を
抱かざるものと見え、此種の語法は
常に其作品に散見するが如し。
(第四篇第三章「自己と隔離せる聯想」)
またもっとくだけて、「彽徊(ていかい)
趣味」について説明した文章では
だから長篇ものに所々此趣味が
散見してゐても、取り立てて
これが作者の趣味だと言ひ切る
訳には行かない。
(「虚子著『鶏頭』序」)
ほらね。
文豪は「散見される」なんて
書かないんですよ。
そのほか近代の文章家たちから、
さらにいくつか、使い方の例を
引いてみましょう。
四方へ漂泊して、豪富の武家たちに
身を寄せておられたことが、
雑史野乗にややもすれば散見する。
幸田露伴「魔法修行者」
これが長崎著聞集、公教遺事、
瓊浦把燭談等に散見する、
じゅりあの・吉助の一生である。
芥川龍之介「じゅりあの・吉助」
況んや息女たちの身の上については、
たまたま一二の書物に断片的な
記事が散見するのみであつて、
詳細なことは何も知られてゐない
のである。
谷崎潤一郎『聞書抄』
立派なる洋館も散見す。大船にて
横須賀行の軍人下りたるが乗客は
やはり増すばかりなり。
寺田寅彦「東上記」
枝に雪をいただいて、それが丁度、
枝に雪がなっているように見える
枯木が、五六本ずつ所々に散見する外、
あたりには何物も見えなかった。
黒島伝治「渦巻ける烏の群」
ね、本来はこういうのが正しい日本語と
されていたですよ~:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
「散見される」はいつごろから?
それにしても、「散見される」なんて崩れた用法はいったい、いつごろから
発生したんでしょうか?
太宰治の小説にそれが出てくるんですね。
意味不明の箇所が、それらの作品
には散見されるのである。
意味不明の文章が散見されるという
ことだけでも、私は大いに
恥じなければいけない。
「春の盗賊」
少し好色すぎたと思われる描写が
処々に散見されたからである。
「ろまん燈籠」
”文章の達人”太宰ともあろう人が、
ア、ア”~~(((゜д゜;))) ……
昭和10年代には、もう一般に崩れて
きてたんでしょうかね。
まとめ
さて、ご理解いただけたでしょうか。今や「散見される」と書く人の方が
圧倒的に多く、これが間違った日本語
だとはなかなか言いにくい状況ですが、
かつてはそうは言わなかったこと。
「散見する」と言い、書いていたことは
知っていても無駄になりません。
正しく美しい日本語にこだわりの
ある人は「散見される」と書くことは
潔しとしないのです(@^(∞)^@)ノ
👉日本語の難しさとそれへの対策を
めぐっては以下の記事もご参照ください。
・「お~になる」敬語は二重化注意:太宰・志賀も”お殺せに”バトル
・“させていただく”が間違い敬語になる場合:恩ない人への恩表現
画像出転:https://ja.wikipedia.org/
・博士の読み方はハカセ?ハクシ?枕草子、漱石に聞く
・お疲れ様とご苦労様の使い分け?(*_*)うるさくなったのは平成から?
いや、ほんとお疲れ様でした;^^💦
👉また当ブログでは入試・受験や大学の
事情について突っ込んだ記事を
量産しています。
こちらの「まとめ記事」に集めています
ので、ぜひ参照してください。
👇
・大学生活は楽しい?? 充実した4年間にするための徹底ガイド
それではまた~~(😺)/。
自発のらるで意味・文法的には解決だと思いましたが、なぜその解釈を見て見ぬふりして無根拠な否定を続けているのか、理解に苦しみます。
aさん
コメントありがとうございました。
ほんとにそうですよね。
独善的な解釈で「正しくない日本語」なる言説を垂れ流す人間がいかに日本語の健全な発展に有害であるか、この記事を書いた人は分かっていないのだろう
目玉焼きには醤油をかけて食うのだけが正しい、と言っているのと同じくらい馬鹿馬鹿しい記事だ
安宅山さん
ご指摘ありがとうございました。
ただ私には「日本語の健全な発展」とおっしゃるその「健全」ということの方向性がわからないのです。定義なしにそう言われる以上、それは安宅山さんが望ましいと思われている変化であって、ほかの多くの日本人が賛同するものかどうかわかりませんよね(わかるとおっしゃるのなら、データがほしいところです)。その「望ましさ」は「目玉焼きには醤油をかけて食う」のが望ましい(好きだ)と言うのとどこが違うのでしょうか。
二重敬語、ら抜き言葉の氾濫や「すべからく」を「すべて」の意味に使うなどの日本語の変化は「健全」であって「望ましい」ともしお考えであるのなら、そのお考えには、《その方が「正しい」、それを否定する言説は「正しくない」》という方向性が含まれているのではないでしょうか。とすれば、それもまた《「正しくない日本語」なる言説》の一つということにならないでしょうか。
ご教示願えれば幸いです。
正しい言葉、正しくない言葉など存在しません。この件については、日本のさまざまな地方の言語について学ばれた方がよいと思います。他記事も少しだけ目を通しましたが、あなたは共通語と標準語の違いすら理解できていないのではありませんか?
もしかして、関東弁(もしくは他方言)こそが正しく他地方の言葉は誤りであるという考えをお持ちなのでは?
言葉に限らず、歪んだ正義感を貫き恥をかくのはあなたです。
正しい言葉、正しくない言葉など存在しません。この件については、日本のさまざまな地方の言語について学ばれた方がよいと思います。他記事も少しだけ目を通しましたが、あなたは共通語と標準語の違いすら理解できていないのではありませんか?
もしかして、関東弁(もしくは他方言)こそが正しく他地方の言葉は誤りであるという考えをお持ちなのでは?
言葉に限らず、歪んだ正義感を貫き恥をかくのはあなたです。
wさん
方言の問題ではないと思っていますし、共通語と標準語の違いに関わる問題とも思いません。
たとえば「正しい言葉、正しくない言葉など在存ましすん。」という日本語があった場合に、これを「正しい」と感じるネイティヴ・スピーカーはいないでしょう。
「散見される」については見解が分かれるでしょうが、私はただ鴎外・漱石らの用例に照らして、そのころの日本人はこれを「正しい」と感じなかったであろうこと、また私自身も個人的にはその感覚に従いたいと述べているだけです。そもそもこのことについて「正義感」などもっていませんので、それが「歪んで」いることもありえないと思っています。