夢十夜 第二夜の意味は?ついに現前しない”無”について解説
やあやあサイ象です。
おなじみ「あらすじ」暴露サービスも
ついに大台を超えて今回でなんと
第102弾((((((ノ゚🐽゚)ノ
「感想文の書き方」シリーズ全体では
第154回となります。
今回は夏目漱石の『夢十夜』(1908)。
「こんな夢を見た」とはじまる10個の
夢語りを並べた異色作で、明治41年、
『朝日新聞』に10回にわたって連載
されたものです。
難解な「第二夜」をどう解釈?
このうち「第一夜」「第三夜」「第六夜」についてはすでに「あらすじ+解説」を
アップしてきましたが、今回は取って置きの
「第二夜」に挑戦!
なぜこれを取っておいたかと言いますと、
するりと読めてしまう人気作ではあり
ながら、いざ筋をまとめて解説しようか
という段になると、これがいささか難解で、
かなり解釈しづらいシロモノだから
なんですね。
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でもなんとかやってみましょう。
新聞連載の1回分なので、全文を読む
のもそう苦にならないはずですが、
やはり文章が古いですし、感想文などを
考える上でのポイントを押さえる意味で、
私なりのメリハリをつけた「あらすじ」を
「序・破・急」の3部構成で書いてみます。
解説入りのあらすじ
では参りましょう。「 」内と「”」印の囲みは原文
(仮名遣いは変更)の引用で、
ところどころに👉印で
私なりの解説を入れています。
【序】
「和尚の室を退(さ)がって」自室へ戻ると、行燈がぼんやりとともり、
たき残した線香がまだにおっている。
広い寺で、襖には蕪村の漁夫の絵。
座蒲団をめくって確認すると
「思った所に、ちゃんとあった」ので
「安心」して座蒲団を戻し、すわる。
👉何が「ちゃんとあった」のかも、
「和尚の室」で何をしてきたのかも、
この時点ではまったくわかりません。
この先、【破】の部分で時間をさかのぼって
「和尚の室」であったことにフラッシュ
バックし、そこで「悟る」云々が問題に
されているところから、「参禅」して
いたことがわかってきます。
【破】
侍なら悟れぬはずはない、悟れないところを見ると「侍ではあるまい」、
「人間の屑じゃ」と和尚は言い、
「ははあ怒ったな」と笑う。
「口惜しければ悟った証拠を持って来い」
と向こうをむいた。
けしからん、置時計が次の刻を打つまでには
きっと悟った上で、「今夜又入室」し、
「和尚の首と引き替にしてやる」と考える。
👉このあたりまででわかってくるのは、
「広い寺」は臨済宗の寺院で、和尚の室への
「入室(にっしつ)」は、それ以前に与えられ
ている「公案」への「見解(けんげ)」を
提示して「見性」(「悟り」の第一段階)を
認可してもらうための(同宗で儀式化して
いる)儀礼的な所作だということ。
したがって、この場合の「悟る」とは
和尚が認可するような「見解」を提示して
みせること…になります。
禅宗のうち武家社会に浸透したのが
臨済宗で、その経典には「仏に遭うては
仏を殺し、師に遭うては師を殺し」
(碧巌録)といった物騒な表現も
珍しくありません。
なので「和尚の首と引き替に…」というのは
文字通りの殺害が考えられているとも、
比喩的に言っているとも、どちらの解釈も
可能です。
もし悟れなければ「自刃する」。
「侍が辱しめられて、生きている訳には
行かない」からだ…と考え、座蒲団の
下から「朱鞘の短刀」を引き出す。
鞘を払うと「冷たい刃」が
暗い部屋で光る。
凄いものが手元から、すうすうと
逃げて行く様に思われる。
さうして、悉く切先へ集まって、
殺気を一点に籠めている。
〔中略〕
忽ちぐさりと遣りたくなった。
短刀を鞘へ収めて脇へ置いて
坐禅を組む。
「趙州いわく無と。無とは何だ。
糞坊主めと歯噛(はがみ)をした」。
👉ここで、和尚からもらった公案が
「趙州狗子」の話(無門関)にもとづく
もので、犬の仏性の有無に関して趙州が
言った「無」について、その「無」を
出して見せろ…
というような問いであったらしいことが
見えてきます。
無だ、無だと舌の根で念じた。
無だというのにやっぱり線香の香
(におい)がした。
何だ線香の癖に。
〔中略〕
けれども〔膝が〕痛い。
苦しい。
無は中々出て来ない。
出て来ると思ふとすぐ痛くなる。
腹が立つ。
無念になる。
非常に口惜しくなる。
涙がぽろぽろ出る。
👉「無念になる」というのは、慣用句で
「残念無念」という場合の「無念」を
一種の洒落として持ち出したものであって、
禅で求められる本質的な意味での
「 」ではありません。
もしそれが獲得されたなら、目的を達した
(悟った)ことになるわけでしょうから。
【急】
それでも我慢してじっと坐っている。「堪えがたいほど切ないもの」が
「毛穴から外へ吹き出よう」とするが、
「どこも一面にふさがって、丸で
出口がない様な残刻極まる状態」。
「そのうちに頭が変にな」り、行燈も
絵も畳も「有って無い様な、無くって
有る様に見えた。
「と云って無はちっとも現前しない」。
忽然、時計がチーンと鳴り、
はっと思って短刀に手を掛けると、
時計が二つ目をチーンと打つ。
映画化作品も面白いが…
さあ、どうでした?うーん、難解といえば難解……
これで感想文を書けと言われても
困ってしまうかもしれませんね。
さて、どうしましょう。
こんな時、映画化作品を見てヒントを
もらうというのもアリですね。
幸い近年の作品で、10人の監督が結集して
作った異色のオムニバス映画『ユメ十夜』
(2006)がありますので、これを見て
考えるのもよいでしょう。
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「第二夜」は巨匠・市川崑監督の手に
なるもので、さすがの出来。
それなりの解釈を示したものとして
鑑賞できるわけですが、原作の
感想文なりレポートなりを書こうか
という場合に役立つかどうかは…
???ですね。
もし出てきたら「無」ではない
ではこの難物、一体何をとっかかりに感想なり批評なりを進めて行けば
いいのでしょうか。
一つの方法として「無」の概念をめぐる
アイロニー(皮肉)またはユーモアに
目をつける、ということがある
と思います。
上記あらすじの【破】の【CHECK】でも
「 」という慣用表現に
込められたアイロニーにふれましたが、
まさにそれです。
「無」を出そう、「現前」させようと
主人公はさかんに焦るけれども、もし
それが出てきたとしたら、どうでしょう。
その場合、「無が有る」といえるので
あれば、それはやはり一種の「有」
なのであって、「無」と呼ぶことは
できないのではないか…
この逆説が笑いを誘います。
「無だというのにやっぱり線香の
香がした」というのも笑える文で、
「香」という属性がある以上「無」と
いえない、とさらに苛立つ「自分」が
ユーモラスに見据えられています。
何かが存在するかぎり「無」ではなく、
「香」のような「色相」(属性)は
何かに付属するものに違いないから、
やはりその何かは存在するわけで、
「無」ではない。
でも、どうなんでしょう。
こういう考え方を進めていって「無」に
ぶち当たることって、はたして
あるんでしょうか。
さあ、どう思います?
これについて自分の意見を書いていっても
よいと思いますが、難しすぎて手に余る
という場合は、作者の夏目漱石自身に
聴いて見るというのも一法です。
小説『門』で描かれる主人公の参禅が
自分の経験を下敷きにしたものであることは
もちろんですが、そのほかにもいろんな
ところで漱石はこの経験について
語っていますから。
実はなにものかである無
漱石の参禅は2度以上あったと思われますが、その根拠は、彼が
もらったとしている公案が2つあること。
- 父母未生以前本来の面目(は何か?)
- 趙州無字(無を出して見よ)
見解については、すでにいくつかの
記事で述べてきました。
👉ひょっとしたらその見解の表現だった
のではないか…とも思わされるのが
『夢十夜』のなかでは「第六夜」。
この「第六夜」をはじめとする『夢十夜』
各篇および”禅”に関わりのある作品への
考察はこちらでお読みいただけます。
・夏目漱石 夢十夜「第六夜」のあらすじと解説:運慶が生きている?
・夏目漱石 夢十夜の第一夜をこう解釈☄ 美しい短篇で感想文を!
・漱石 夢十夜のあらすじと解釈:第三夜で感想文ならどう書く?
・門(夏目漱石)の簡単なあらすじと”禅”をめぐる批評・感想
・金閣寺(三島由紀夫)で感想文【2000字の例文】猫を斬る意味は?
さて、そこで今回は2.の方に挑戦しなくては
ならないわけですが、これが難物である
ことは先刻ご承知のとおりです。
でも、そこはさすが漱石先生。
偉いなあと思うのは、この難題をめぐる
思考をきちんと書きとめてくれて
いるんです。
しかもそれが、英国留学に向かう船の上で
布教しようとする英国人宣教師を英語で
論破した、その内容をやはり英語で
書きとめた文章の中にあるんですね。
👉「論破した」というのは同じ船で英国に
向かっていた芳賀矢一の証言であって、
漱石自身の言葉ではありません。
その英文は『漱石全集』第19巻(p.31~
「断片四A」)に全文掲載されて是非
ご一読をお願いしたいのですが、無理だ
とおっしゃる方のために、ほんのさわり
といいますか、「無」に直接かかわる
部分だけ、拙訳でお目に掛けます。
彼らはわれわれを「偶像崇拝者」
(idolaters)と決め込んでいる
けれども、「神」はその「化身」
(incarnation)たるキリストを
通してのみ意味をもつという
彼らの観念こそ「偶像崇拝」
(idol-worship)にほかならない。
〔中略〕
私の宗教をして、その超越的
偉大さのうちに他のあらゆる宗教を
包含するものたらしめよ。
私の神(my God)をして、 (nothing
which is really something)
──名称は相対性(relativity)を
巻き込むため、それによっては
呼ばれえないがゆえに
私が無と呼ぶところのもの
──たらしめよ。
それはキリストでも精霊でも、
ほかのなにものでもなく、
なおかつキリストであり、
精霊であり、ほかのあらゆる
ものである。
禅の老師らが「出せ、現前させてみよ」
と迫るところの「無」も、これと
決して別物ではないはずです。
言語によって規定されえない(規定
されてもそれは仮の取り決めにすぎない)
がゆえに「 」。
それ以外に信仰の対象はありえない…
というのがこの時点での漱石の認識であり、
信仰告白でもあったわけですが、それは
臨済禅の根本的な考え方と矛盾しません。
(おっと、これは私見…
識者の叱正を乞います;^^💦)
言い方を換えれば、禅仏教で強調される
「 」は、一切は本質的に「 」だ
という真理(仏教でいうダルマ)に言及しよう
とするものであって、「何も存在しない」
とか「すべては消滅する」とかいう話を
したいわけではない。
少なくとも漱石の理解する禅はそういう
もので、西洋の大波に抗して彼が打ち出す
ことになる「自己本位」の思想の根底に
この哲学があるのです。
どう書く、感想文
どうでしょう。上に紹介した文を使うなどして、
作者漱石はこう考えていたのではないか、
というふうに論を立ててみませんか。
先生も舌を巻く立派な感想文・レポートが
できる可能性大ですよ。
あるいはこれがユーモラスな作品である
ことに目をつける。
「無」を現前させるなんて不可能だし、
そんなことにシャカリキになっている
修行者たちこそ笑うべきだ…という
宗教風刺の作品として読むとか。
ともかく漱石は数学もよくできた人で、
大学進学に際しては理科系に進んで
建築をやろうかと考えたほど。
その哲学は深く、透徹したもので、
感覚的なまやかしのような思考を
許容しませんでした。
👉ここまで概観してきましたように、
漱石は独自の哲学をもつ人で、その射程が
現代にまで届いていることは、東大出の
講義録『文学論』の英訳者など海外の
学者によっても認められています。
詳しく知りたい人はこちらの本を
のぞいてみてください。👇
この本の内容のごく一部は、これらの
記事でも言及していますので、
ご参照いただけると幸いです。
・恋は罪悪で神聖?宇宙的の活力?男女は一つになるか…【漱石の恋愛名言12】
・夏目漱石「月が綺麗ですね」の出典は?I love youはこう訳せ?
・俳句と川柳の違いは?子規・漱石にその極意を尋ねれば…
・シェイクスピアのオセロを講義:漱石の名言「白砂糖の悪人」?
👉そのほかの漱石作品については
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夏目漱石の本:ラインナップ
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わからん( ̄ヘ ̄)?
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