夏目漱石「月が綺麗ですね」の意味・背景を徹底研究!寅さんから小津へ?
(I love you)の意味で
「月が綺麗ですね」と
言ったり、送信したり
するのが若者の流行。
今やテレビドラマの
セリフにも出てくる
ようになっていますが、
これって、そもそもの
由来は?
いますが、実はどの本
にも出てきませんし、
『漱石全集』の総索引
で調べても形跡なし。
都市伝説❔
先生でしたから、授業中
に言ったことが学生たち
に記憶され伝わった…
という可能性は十分
あると思いますよ。
さすがのご威光。
というか日本人に訴える
月の威光もすごい…
漱石を意識したかどうか
不明ですが、『男はつら
いよ』の寅さんも愛の
告白に近い場面でそれを
言ってるんです;^^💦
シリーズ第何作で
マドンナは誰だった
んですか❓
というわけで、本日はこの
「月が綺麗ですね」の大研究。
発生源と考えられる夏目漱石の教室での
発言について徹底調査するとともに、
その言葉が出てくる背景にある日本人の
心のふるさとのようなものを探って
いけたら…と思っています。
その過程でご登場を願うのが国民的映画
シリーズといえる『男はつらいよ』、
さらにこちらは”国民的”を超えて世界的
でもある小津安二郎映画((((((ノ🤡)ノ
というわけで、以下のような
内容になります。
まとめ
1.「我君ヲ愛ス」なんて
日本人が言うか
とりあえず本当に漱石の発言だったか…という問題から。
ネット上では「夏目漱石が”I love you”を
『月が綺麗ですね』と訳したそうですが、
それはどの作品に出てきますか?」とか、
はたまた「漱石って意外に英語でき
なかったんですね」なんていう早とちりの
コメントまで飛び交っています。
どの作品にも出て来ないことは冒頭の
会話でも言及したとおりですが、
英語が「できなかった」わけでは
よもやありますまい。
なにしろ漱石は英語を学んで来いと
英国に派遣された国費留学生第一号。
帰国後は東京帝国大学でその英語を
教えていた人ですから;^^💦
さて、この「月が綺麗ですね」の起源、
出どころがやはり漱石だという説については
「ニコニコ大百科」の次の説明などが
真相に近いと思われます。
夏目漱石が英語教師をしてた時、
生徒が “I love you.” を「我君ヲ
愛ス」と訳した所、
「日本人がそんな台詞を
口にするか。
『月が綺麗ですね』とでも
訳しておけ。
それで伝わるものだ」
と言ったそうな。
要するに「『愛す』なんてはっきり
言わせんなはずかしい」ということ
である。
(引用元:ニコニコ大百科)
これに続けて「後世による創作の可能性が
高い」と「ニコニコ大百科」。
でもこれ実は、冒頭の会話でハンサム教授も
推論しているとおり、決して純然たる創作
(フィクション)ではなく、漱石の授業に
出ていた学生の言い伝えに基づいている
可能性が高いのです。
2.「我君ヲ愛ス」は漱石
の小説に出てこないか
漱石が『吾輩は猫である』で華々しく文壇デビューしたのは東京帝大在職中の
ことでした。
「我君ヲ愛スなんて日本人が言うか」と
授業中に苦笑した時すでに作家になって
いたかどうかは不明ですが、でもその後
朝日新聞に入社して毎年、長編小説を書く
ようになってからはどうだったのでしょう。
どの長編小説でも男女の愛を描いては
いるので、「愛します」とかなんとかの
セリフが出てきてもおかしくはない
ないわけです。
こういうことを調べるのに便利なのが
『漱石全集』の「総索引」(1990年代の
岩波版全集なら第28巻)で、これで
見ると、ないことはないのですね。
「愛してもいない私に対して」
(『彼岸過迄』1911-12)、
「愛するのよ、そうして愛させるのよ」
(『明暗』1916)
…といった調子です。
ただ気になるのは、これらのセリフが出て
くるのがいずれも後期の作品で、かつ
口にするのは女性だということです。
たとえば前期三部作(『三四郎』
『それから』『門』1908-10)では
やはり恋愛が主要なテーマになって
いますが、そこでの男女は「愛する」云々
の言葉は発しなかったのでしょうか❓
はい、言わなかったんですね。
では、たとえば三作中、恋愛小説として
最も人気の高い『それから』の代助は
三千代を自分のものにしようとする時、
一体どんな言葉を口にしたのでしょうか。
これがその決定的な言葉。
「僕の存在には貴方が必要だ。
どうしても必要だ。
僕はそれだけの事を貴方に
話したい為にわざわざ貴方を
呼んだのです」(十四)
この一言で三千代の心も決まりますから、
「僕は貴方を愛する」ではなく「(僕の
存在には)貴方が必要だ」でOKだった
わけですね。
ですので、これが、「我君ヲ愛ス」を
日本人ならどう言うかについての漱石の
回答だった…
と一応は言えるのかもしれません。
ただ、それが唯一絶対の回答だったわけでは
ないこともまた、愛の告白で「必要」の語を
用いる場面はその後の小説にないことや、
すでに見た通り、「愛する」も使わなかった
わけではないことから明らかなんです。
“I”や”you”に当たる日本語がたくさん
あるのと同じで、「我君ヲ愛ス」の言い方も
また無数だ、それぞれがその場で工夫しろ…
ということだったのかもしれませんね。
👉それにしても『それから』の
「僕の存在には貴方が必要だ」は
日本語史上に輝く名言として残って
いくものかもしれません。
ただ、問題(批判の余地)がないわけ
ではありません。
それについてはこちらで検討・考察して
いますので、どうぞご参照ください。
・それから(漱石)で感想文【読書レポート2000字の例】愛の言葉は…
『それから』のこのセリフや、
『こころ』の先生ののたまう「恋は
罪悪ですよ。そうして神聖なものですよ」
等々、漱石文学全般の”名言”を
こちらでまとめていますので、
ぜひご参照ください。
・恋は罪悪で神聖?宇宙的の活力?男女は一つになるか…【漱石の恋愛名言12】
要は、「我君ヲ愛ス」なんてヘンテコで
ドギツイ舶来コトバを使わなくても、
その気持ちを伝える言い回し、表現方法は
無数にある…
ということで、「僕の存在には貴方が
必要だ」なんてのも、まあそれだし、
「月が綺麗ですね」だっていい。
各自が場合に応じて工夫すべきだよ、
というのが漱石先生の言わんとされた
ことなのでしょう。
さて、そのように推定する根拠はと言えば
それがまさに漱石が英語の授業とは別に
やっていた文学全般についての講義の
内容とも一致してくるということです。
その講義録が『文学論』(全集第14巻)で、
その内容にも立ち入っていかなくてはなら
ないのですが、少々むずかしくなるかも
しれませんので、ここで一息入れましょう。
お待たせ、寅さんの登場です;^^👏👏
3.「月が…」と寅さんが言っていた
渥美清の寅さんとマドンナ(相手役の美女)との絡みで、愛の告白に近い言葉が
交わされることは少なくないわけですが、
その前後に「月が…」云々が口にされ、
ほぼ同時に美しい月(必ず満月?)が大きく
映し出されるシーンは、シリーズ全48作中
私の知る限りでも2回はあります。
出色なのが第8作『男はつらいよ 寅次郎
恋歌』(1971)で、マドンナは全48作中でも
トップクラスの美貌に輝く池内淳子さん!
その「月」の場面が出て来ないのは
残念ですが、参考までに予告編を
ご覧ください。 👇
シングルマザーの喫茶店主、貴子
(池内淳子)の家の縁側での場面です。
夕刻、リンドウの鉢植えを手土産に
ふらりと現れた寅さんが、縁側に
腰かけて、貴子としんみり話します。
「困ってることがあるんじゃない
ですか?」と切り出した寅さん、自分に
できることがあれば「指の一本や二本、
いえ、片腕、片脚ぐれえでしたら、
なんでもございません」と真剣そのもの。
「嬉しいわ」と泣き笑いする貴子が
「そんな風に言われたの、私、生まれて
初めてなのよ」と感謝すると、
「いい月夜でございますね」と寅が言い、
次の瞬間、素晴らしい満月が映し
出されるのです。
もう一つはリリー(浅丘ルリ子)登場の
第11作『寅次郎忘れな草』(1973)。
こちらではマドンナの方が積極的で
「私の初恋は寅さんかな…」などという
発言の後、二人が二階に上がり、
襖一枚だけ隔てた隣室で話すうち、
「綺麗なお月様ねえ」とリリーが言い、
その満月を見て寅も同意するのです。
脚本・監督の山田洋次さんが漱石を意識
していた可能性は低いとは思います。
が、日本人はこんな時に「アイラブユー」
なんて露骨な表現は避けて「月がいいね」
とかなんとかに迂回するものだ…
という感性を共有していたことは
たしかなのではないでしょうか。
4.小津安二郎映画にもある?
『男はつらいよ』の山田洋次監督がこれに似たシーンをほかの作品でも撮っているか
どうかは、寡聞にして知りません。
(ご存じの方はコメント欄からご教示
いただけると幸いです)
でも、このシーンのこの流れ、撮り方には
ひょっとして、松竹の大先輩でもあった
“世界のOzu”こと小津安二郎監督の影響を
見ることも…❔
という推測は多くの映画ファンに共有
されるところではないでしょうか。
ん? なんのこっちゃ?
と戸惑われた方は、まず
こちらをご覧ください。。👇
小津監督の代表作の一つ、『東京物語』
(1953)のワン・ショットを使ったポスター
ですが、細かい文字を読んでもらうとわかる
ように、実はこれ、BFI(英国映画協会)主催の
「全時代を通じて最も偉大な映画 2012」
(The Sight & Sound Greatest Films of All
Time)監督投票部門で堂々の第1位に
輝いたことを記念するもの!
ちなみに では第3位。
(こちらを参照:Wikipedia)
決して派手さはないものの、いかにも
クロウト好みに精巧に作りこまれた、
文句なしの傑作なんですね。
さて、問題はこのショットの構図。
並んで立って、やや遠方にある同一の
何かに視線を送っている役者は
原節子と笠智衆です。
で、こういう構図、先刻ご承知かも
しれませんが、実のところ小津監督の
得意中の得意。
後期の作品では必ずといっていいほど、
何回か、重要な場面で使われます。
ただまあ、この場面で原節子と笠智衆が
見ているのも「月だ」というのは
少し無理があるかもしれません;^^💦
そこで、これを機会に主な作品をザッと
見直してみたのですが、二人で明確に
月を見ているというシーンは残念ながら
発見できませんでした。
(これもご存じの方がおられましたら、
コメント欄からご教示を!)
👉『東京物語』について、より詳しくは
こちらをご参照ください。
・小津安二郎(東京物語ほか) 独特の構図⦅二人で遠望⦆が漱石に通ず?
5.『文学論』講義に照らすと…
さて、ここで漱石に戻り、『文学論』の講義内容に入っていきましょう。
「『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ」
というのが漱石自身の発言である可能性が
高いという推論の根拠の一つは、その
『文学論』での議論の例に「月」が
出てくること。
ただ、冒頭の会話でふれていますとおり、
『漱石全集』「総索引」によれば、ただの
「月」なら頻出するものの、「月が綺麗
ですね」と出てくる作品は皆無です。
ではどこを探れば…と考えた場合に
浮上するのが『文学論』なんですね。
はじめの100ページぐらいまででも読んだ
人なら察しがつくかと思いますが、
この講義を進めながらの余談で「月が綺麗
ですね」という例のエピソードが出てきた
としてもちっとも不思議ではありません。
というのも『文学論』の冒頭で導入されて
いる漱石の基本的な文学観を砕いていうと、
こうなります。
「F+f」で成り立っているから。
「F」とは「焦点的印象または観念」
(Focal impression or idea)のことで、
「f」は「これに付着する情緒」
(feeling)をいう。
要するに、この基本図式に沿って「文学」
的現象の一切を解き明かそうというのが
この本の野心であり、英国留学の成果でも
あったんです。
月・星・花と「三角形の観念」の違い
さて、この図式の説明に続けて漱石は、「F ありて f なき場合」として「三角形の
観念」を挙げ、また「F に伴うて f を生ずる
場合」として「花、星等の観念」を
挙げています。
どちらがより「文学的」に見えるか……
言うまでもありませんよね。
つまり「花」とか「星」とかの言葉を
繰り出せば「 f 」すなわち
「これに付着する情緒」もいっしょに
生ずる」場合が多く、それに伴って
“文学らしさ”が発生します。
この意味において、「花、星」のグループに
「月」が加わったとしてもなんの不思議も
ありません。
実際、先の方を読むとこんな文章も。
すなわち月といえば月の観念も
元より必要なるべきも、先ず第一に
欠くべからざるは月の光景なり、
この画姿さえあらば f を生ずる
こと容易なり。
(『漱石全集』第14巻、92頁)
講義中このあたりを説明しながら、
「月が綺麗ですね」の話に似た例話を
持ち出した可能性は大いにありますし、
「文学」でなく「英語」の授業であった
としても、この先生なら、そういう横道に
それていっても不思議はありません。
もしそれが見当違いで、この話が完全な
「後世による創作」であったとしても、
話を作ったのは漱石の講義を聴いていた
人か、そうでなければ『文学論』の
読者だった可能性が高い……
というのが私の推理なんです。
f が”I love you”をにじませる?
“I love you.” なんてドギツイ。それはもう「三角形の観念」に限りなく
近いではありませんか。
「F ありて f なき場合」だと
言っていいかもしれない。
それに比べて、「月が綺麗ですね」は
どうでしょう。
そこに f が喚起される確率は高いはず
ですが、その f がもし”I love you”を
そこはかとなくにじませるものとして
聞き手に感受されるとしたら……
「F に伴うて f を生ずる」ことにおいて
最上のケースともなりうるんじゃ
ないでしょうか。
これこそが「文学」だ……というのが
『文学論』の基本構想なんですよ。
7.「皆まで言うな」が
日本の美学
さらに、もし漱石のこの発想がどこから来たかを問うとするなら、それはたぶん
「俳句」の美学なんですね。
漱石は大学生時代、親友の正岡子規に
触発されて俳句を学び、その後二人で
批評しあって、ともに俳句を多産しました。
なので、評論などを読むと二人の俳句観が
似通っていたこともわかって面白い。
たとえばこの俳句、どう思います?
つるべ取られて
貰い水
(加賀の千代女)
人口に膾炙したこの名句を、なんと
漱石・子規は全否定するのですね。
漱石は「拙句」と切り捨て(『ノート』)、
子規に至っては「俳句にあらず」とまで
酷評しています(『俳諧大要』)。
なぜ「俳句にあらず」なのか。
答えは要するに「すべてを語って
しまっている」から。
たとえば下の写真、井戸のつるべでは
ありませんが、朝顔がありがたくない
ところに巻き付いてますよね。
だから、取り去りたいかもしれない。
でも一方では、せっかく綺麗に咲いて
いるのに、どうしようか……
と見る人の想像を掻き立てるかも
しれません。
千代女の句ももし「朝顔につるべ取られて」
で終わっていれば、その種の効果をとどめる
のに、「貰い水」とオチまで語ってしまって
いるところでブチ壊しだ…
というのが子規の批判の要点なんですね。
(もちろんそれは子規の俳句観であって、
俳人間でも賛否は分かれますが)
『男はつらいよ』ファンの方なら記憶に
あるでしょうが、寅さんも時折、他人の
言葉を「皆まで言うな」とさえぎったり、
「それを言っちゃあオシマイよ」と…
明言を避けて暗示にとどめることを
尊ぶ傾向が見られますね。
同じ感性が漱石・子規にも共有
されていたように思われるのです。
つまり「つるべ取られた」と言うのは
よいけれど、それで「貰い水しました」
とまで詠んでしまうのは、すなわち
“I love you”と言っちゃったのも同じ…
という話。
いや、”I love you”をぜひ言いたければ
言ってもいいのですが、 fを生じさせる
ことに乏しいそのような「F」は、漱石・
子規、そして寅さんの美学を外れるもの
というほかないのでしょう。
👉Fを提示することで、そこにfが付随し
そのfによって作者(または読者の)記憶の
底まで掘り出していく…
という意味での「俳句の美学」を実践した
ともいえる小説を漱石はいくつか書いて
いますが、その代表作として『草枕』や
『文鳥』を挙げることができるでしょう。
これらについてはこちらで詳しく
書いていますので、せひご参照ください。
・夏目漱石 草枕のあらすじを簡単に【&詳しく/現地写真・絵画つきで】
・文鳥(夏目漱石)で読書感想文/読書レポート【2000字の例文つき】
まとめ
というわけで、学生さんの「我君ヲ愛ス」の訳に対して「月が綺麗ですね」にしておけ
と漱石が言ったのだとしたら、それは、
「はずかしい」云々よりむしろ「文学的で
ない」というニュアンスの方が大きかった
と考えられるのです。
さあ、あなたも誰かさんの耳元で
ささやいてみましょうか。
「月が綺麗ですね」……
佳き f が立ち上がりましたら、
おなぐさみ。
で、言われた場合の「返し」は?
ご存知の方も多いかもしれませんが、
これが「死んでもいいわ」だという
ことになっているんですね。
👉なんでそんなことになったのか?
詳細はこちらの記事をご覧ください。
・二葉亭四迷「死んでもいい」の出典は?『片恋』の”Yours…”」
👉漱石と子規の俳句理論をめぐっては
こちらもご参照ください。
・井伏鱒二 『山椒魚』結末部分の削除を”俳句美学”で解釈すると
👉そのほか漱石作品の人と作品に
ついてはこちらをご参照ください。
・夏目漱石のおすすめの本は?小・中学生からシニアまで人生経験の段階別
👉そのほか漱石の作品を早く安く
手に入れたい場合は、Amazonが便利です。
こちらから探してみてください。
夏目漱石の本:ラインナップ
👉当ブログでは、漱石ばかりでなく
日本と世界の種々の文学や映画の作品に
ついて「あらすじ」や「感想文」関連の
お助け記事を量産しています。
参考になるものもあると思いますので、
こちらのリストからお探しください。
・「あらすじ」記事一覧
・≪感想文の書き方≫具体例一覧
ともかく頑張ってやりぬきましょー~~(^O^)/
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