存在の耐えられない軽さ(小説/映画)の哲学を考察【あらすじと名言】

存在の耐えられない軽さ(小説/映画)の哲学を考察【あらすじと名言】

サクラさん
2020年代のウクライナの
悲劇を目の当たりにして
年配の方には「またか」
という思いもあると
聞きます。

この「またか」を若者
にもよく理解させて
くれる映画といえば?

ハンサム 教授
『存在の耐えられない
軽さ』がイチオシ。

ミラン・クンデラの原作
はもっといいけどね。


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サクラさん
それはやはり、ロシアに
よる東ヨーロッパへの
侵攻を描くもの?

ハンサム 教授
ええ。当時はソ連です
が、1968年チェコの動乱
《プラハの春》で運命を
変えられてしまう人々…

クンデラ自身が動乱への
関与によりフランスへ
逃亡して、そこで書いた
長編小説がこれですね。

サクラさん
なんだか政治的・思想的
で難しそうですね(🙀)

ハンサム 教授
いやいや、基本的には
恋愛・性愛の物語ですし
ゲラゲラ笑ってしまう
部分も多いんです;^^💦

「スターリンの息子と
糞(くそ💩)」の話とか
あまり知られていない
話も満載でウンチクが
深まります。

サクラさん
でもやっぱりタイトル
からして意味わかん
ないですし…(😿)

ハンサム 教授
そういえば映画では
テレーザ(ジュリエット
・ビノシュ)がトマシュ
(ダニエル・デイ・ルイ
ス)に「あなたの存在の
軽さが耐えられない」と
怒りをぶつけますが、
そういう場面は原作には
ありません。




この”軽さ重さ“には
クンデラ独自の哲学が
込められていて「耐え
られない」の一言で
片づけられるような
ものではないんです。

サクラさん
やっぱ難しそう(😹)…
でも面白そう(😻)

クンデラの思想を的確に
言い表している名言
抜き出してみて
もらえませんか?

ハンサム 教授
なんとかやって
みましょう;^^💦


というわけでおなじみ”あらすじ暴露”
サービスの第236弾(“感想文の書き方”
シリーズとしては第323回)となる今回は
アメリカ映画『存在の耐えられない軽さ』
(The Unbearable Lightness of Being,
1988)で行ってみます((((((ノ゚🐽゚)ノ
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イギリス出身のダニエル・デイ・ルイス、
フランス出身のジュリエット・ビノシュ
(二人はこの撮影を機に交際)、スウェー
デン出身のレナ・オリンという3大スター
の豪華共演!

しかも撮影は古いニュース・フィルムと
本編の画調を調和させるという名人芸を
スヴェン・ニクヴィストに駆使させて
まとめた、フィリップ・カウフマン監督の
記念碑的傑作です。

まだ観ていないという人はこちらの
予告編をご覧ください。👇 
   


原作はもちろん、チェコからフランスに
亡命同様の形で国籍も使用言語も変更し、
今や”文豪”とも呼ばれる大作家ミラン・
クンデラの同名作品(1984)
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なのですが、これが7部構成で400頁近い
大作で、ストーリー上もテレザの両親、
サビナの両親と新しい恋人フランツのこと、
トマーシュの前妻と息子のことなど
映画では完全にカットされている部分が
少なくないのですね。

しかも冒頭の会話でもふれた「存在の軽さ」
という主題などの哲学的な考察が原作では
とことん進められていて、深い共感と
感動を生むのですが、そのあたりはやはり
映画では無理なのか、軽いスケッチで
終わってしまっています。

だからキーワードであるはずの「軽い
重い」の深い意味は、映画からは
まず理解できません。

そこで本日は、この歴史的名作の内容に
入り込み、映画からはこぼれ落ちてしまって
いる哲学的でユーモラスな考察──そこに
幾多の名言も飛び出します──を含む部分を
正しく引用しながら解説し、まことに
上質なクンデラ文学の世界をじっくりと
味わっていただこうという趣向です。

というわけで、本日の内容は
ザッと以下のとおり。


映画の簡単なあらすじ

それではまず簡単なあらすじから。

ただし、あくまで映画のあらすじ
(もちろんネタバレあり)であって、
小説とは違う部分もあります。

違いは後半の「4つの哲学的考察名言
で補っていただけるようになっています。

プラハの優秀な脳外科医トマシュは
同僚の看護婦や美しい画家のサビーナ
など、多くの女と関係をもっている。

ある日、執刀のために訪れた小さな
温泉街でカフェのウェイトレスで
読書家のテレーザと知り合う。

そこでは何の約束もしなかったが、
テレーザは、その後トマシュを追って
プラハに来て、二人は愛し合い、
同居から結婚へ進む。

結婚後もサビーナらとの性関係を続ける
トマシュにテレーザは苦しみ、
飼い始めた雌犬カレーニン(下記の
👉を参照)に愛を注ぐ。

そんな折(1968年8月)ソ連軍が
プラハに侵攻。




以前から共産党を風刺する新聞投稿で
秘密警察に目をつけられていたトマシュは
テレーザとカレーニンを連れてスイス・
ジュネーブへと国外脱出。

そこでテレーザは雑誌のカメラマンと
なり、まず女性の裸を撮れといわれ、
先に来ていたサビーナにモデルを依頼。

二人の間には奇妙な友情も育つが、
他方ではトマシュとサビーナの
性的関係も再開。

トマーシュの「存在の軽さ」に絶望した
テレーザは書置きをを残し、
カレーニンを連れてプラハへ帰る。

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彼女を追ってトマシュも帰国するが、
検問所でパスポートを没収される。

幸福な夫婦生活が再開するものの、
トマシュはかつて新聞投稿した記事の
撤回を拒否したため病院を解雇され
窓ふきの仕事を始める。

トマーシュの浮気とそれに気づいての
テレーザの嘆きはなおも続いたが、
やがて彼は、テレーザとカレーニンを
連れて農村へ移住し(浮気はもう無理)
トラックの運転手として暮らす。

フランツにも失望して去ったサビーナは
アメリカで家として成功していたが、
そこに二人の事故死を知らせる
手紙が届く。
👉この「カレーニン」という名前は
二人の出会いの日にテレーザが読んでいた
トルストイの『アンナ・カレーニナ』に
由来しています。

文豪のこの大作については、
こちらで情報提供しています。

アンナカレーニナのあらすじ 原作本と映画(2012)【相関図つき】

        


4つの哲学的考察名言

さてここからは、かなり長い原作小説から
素晴らしい名言を含む、哲学的かつ
ユーモラスな部分を4つだけ抜き出し
──この抜き出しも大変困難なのですが──
私なりの考察や解説を加えて参ります。

➊ニーチェの「永劫回帰」と馬への愛

「第Ⅰ部 軽さと重さ」はこのように
書き出されています。

永劫回帰という考えは秘密に
包まれていて、ニーチェはその考えで、
自分以外の学者を困惑させた。


われわれがすでに一度経験したことが
何もかももう一度繰り返され、その
繰り返しがさらに際限なく繰り返される
であろうと考えるなんて!

いったいこの狂った神話は何をいおうと
しているのであろうか?

   


もしこの「永劫回帰」が事実であるならば…
という哲学的な考察から始めて、徐々に
トマーシュとテレザ、そしてサビナらの
物語(映画ではサビナが先に出ますが、
小説では逆)に入っていきます。

ニーチェにからんで、人生についての
重さ軽さ”という独特の見方を打ち出す
冒頭部分の考察をここで短くまとめる
ことは困難ですが、要点の一つはこれだ
と言ってよさそうです。

人間というものは、ただ一度の人生を
送るもので、それ以前のいくつもの
人生と比べることもできなければ、
それ以後の人生を訂正するわけにも
いかないから、何を望んだらいいのか
けっして知りえないのである。

      (第Ⅰ部 軽さと重さ)


それは絶対そうですよね、ニーチェが
何と言おうと。

いや、ニーチェが言わんとしたのも
結局このことだったのかもしれない。

👉なんだかよくわからん…
という人はクンデラ自身のエッセイを
覗いてみるのが早道かもしれません。

そこで彼は『存在の耐えられない軽さ』に
ついて最初に考えていたタイトルは
『未熟の惑星』だったとして、
こう述べています。

私たちは一度しか生まれない。

前の生活から得た経験をたずさえて
もうひとつの生活をはじめることは
決してできないだろう。


私たちは若さのなんたるかを知ること
なく少年時代を去り、結婚の意味を
知らずに結婚し、老境に入るとき
ですら、自分が何に向かって進んで
いるかを知らない。

つまり、老人はおのれの老齢に
無知な子供なのだ。

この意味で、人間の世界は
未熟の惑星である。

     (『小説の精神』第6部)



ともかく、世の中には、この絶対的な
事実を重く受けとめてしまう人もあり、
いや、だから軽く生きればいいんだ
と受け流す人もいる。

テレザは前者で、その夫となるトマーシュ
や、彼の結婚以前からの「性愛的友情」の
相手であるサビナは後者──すなわち「存在の耐えられない軽さ」を生きる
人物──のようなのですね。

この3人の奇妙な三角関係、さらには
サビナがスイスへ行ってからの「性愛的
友情」の相手フランツとその妻、また
離婚後に関係する女子学生との関係、
さらには貞淑な妻テレザがあえて試みる
不倫の関係もあったり…
とドラマは重層的に転進していきます。
(映画でその半分か2/3程度しか
描かれていないのですが)

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ともかく、このような物語の進展に「なる
ほど。これは名言!」と特記したくなる
言葉を含む、哲学的な考察を絡ませていく
のがこの小説全体のトーンとなっています。

冒頭に引き出されて以降、引っ込んでいた
ニーチェは、ラスト近くで再登場するの
ですが、それはトマーシュ夫婦の愛犬
カレーニンの死に臨んで、動物の「心」の
存在を否定したデカルトに反発するという
文脈においてです。

1889年、街で鞭打たれている馬を見て
駆け寄ってその首を抱いて泣き、ついに
発狂したと見られたあの「泣くニーチェ」。

ニーチェはデカルトを許して
もらうために馬のところに来た。

彼の狂気(すなわち人類との決別)は
馬に涙を流す瞬間から始まっている。


 そして、私が好きなのは
このニーチェなのだ。
     (第Ⅶ部 カレーニンの微笑)

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👉このニーチェという人の生涯や
哲学については、こちらの記事も
ご参照ください。

ニーチェ ツァラトゥストラは読みやすい?訳本選びがカギに

            

“結婚生活は長い会話である”とニーチェが言ったって本当?出典は?

マゾヒズムの心理とは?その劇(ゲーム)的な物語はなぜ悲喜劇に終わる?

       


➋存在の「軽さ」と隊列への「裏切り」

上記の「➊ニーチェの「永劫回帰」と馬への
愛」で「私」(トマーシュとは別の語り手)
は、ニーチェの狂気について「すなわち
人類との決別」という表現をしていました。

人類一般、あるいは国家社会はどちらかと
いうと人生や運命を重く受け止めている、
あるいはそういうフリをしている人たちの
寄り集まりで固められ、安定を保って
います。

だから、軽く生きている人間は罰せられ
追放される場合もあり、あるいは自ら
ふわふわと離脱していったりもします。

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トマーシュの場合は『オイディプス王』
(ソポクレス作のギリシャ悲劇)にからめて
政権を風刺・批判した新聞掲載の文章の
せいで、国外へ出たり、病院をクビに
なったりします。
(なおこの文章、映画字幕では「論文」と
されていますが、原作ではただの投書。
医師が書く論文としては完全な畑違い
なので変に感じる人が多いはず)

つまりこれは「追放」ですが、彼の「性愛的
友情」の相手で画家のサビナの方は、
自分からチェコを出ていくのでむしろ
「離脱」です。

彼女が高校時代から続けてきたという自覚の
ある行動パターンは「裏切り」ですが…、

裏切りとは隊列を離れて、
未知へと進むことである。


サビナは、未知へと進むこと以外に
より美しいことを知らなかった
のである。
 (第Ⅲ部 理解されなかったことば)

        


「隊列」はこの場合、自分の家族も含め
“列を乱さず右に倣えで生きている”、
重い、またはそのフリをしている人々の
群れを指しているのでしょう。

彼らは「重荷に耐えられるか、耐えられず
下敷きになるか、それと勝つか負けるか
する」けれども、サビナにはそんなことは
「何も」起こらないというのです。

一人の男と別れたかったから捨てた。

それでつけまわされた?

復讐された?

いや、彼女のドラマは重さのドラマ
ではなく、軽さのであった。

サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、
存在の耐えられない軽さであった。

            (同)

つまり「存在の耐えられない軽さ」は、
直接にはサビナについて言われるので
あって、トマーシュを批判してのもの
ではないのですね。

ただこの二人は軽さにおいて似たもの
同士なので、トマーシュも「存在の耐え
られない軽ささを生きており、これが
重さの人テレザを苦しめ続けるという
構図に違いはないのですが。
👉この軽さというのがどうもよく
わからん…という人はクンデラ自身の
発言を聞いてみましょう。

「人間は自然の主にして所有者」だと
説いたデカルトを批判する文脈で、
彼はこう述べています。

この<主にして所有者>は、自分がなに
ひとつ所有しておらず、自然の主でも
なく、「歴史」の主でもなく、
自分自身の主でさえないことに
突然気づいたのです。

しかし、神が死に人間がもはや主でない
のなら、だれが主なのでしょうか。

この地球は、主がいないまま空無の
なかをすすんでいるのです。

そこにこそ存在の耐えられない軽さ
あるのです。

     (『小説の精神』第2部)



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➌なぜ多数の女を求め続けるのか

重い「愛」の人、テレザは、自分も
トマーシュのようになれたらと思い、
言い寄って来た技師(秘密警察だった
可能性をあとで知る)を相手に軽い
「性愛的友情」を実験してみます。

が、一時的「快感」はあっても、結局、
それは苦悩を深めるばかりでした。

それでは、サビナやトマーシュが楽しみ
続けられる「性愛的友情」と「愛」とは
どう違うのでしょうか。

小説が始まってまもなく、こういうことが
言われています。

トマーシュは、女と愛し合うのと、
一緒に眠るのとは、まったく違う
二つの情熱であるばかりか、
対立するとさえいえるものだと
いっていた。

愛というものは愛し合うことを望む
のではなく(この望みは数えきれない
ほどの多数の女と関係する)、一緒に
眠ることを望むものである(この望みは
ただ一人の女と関係する)。

      (第Ⅰ部 軽さと重さ)

     


ただ「多数の女と関係する」ことを望み
続ける男──すなわち「女好き」──にも、
2つのカテゴリーがある、と語り手の
「私」は述べます。

一つは「どの女にも自分に固有の、
女についての常に同じ夢を探し求め」
続ける「抒情的な女好き」。

トマーシュの場合は、これとは異なる
叙事的な女好き」で、女たちの差異こそが
女狩り(ガールハント)の魅力・動機と
なっているというのです。

この両者は「重い女好き/軽い女好き」と
言い換えることもできそうですが、ともかく
叙事的軽い色好みが追求される理由は
以下のように説明されます。

「私」というものの唯一性は、
人間にある思いがけなさの中にこそ
かくされているものである。


トマーシュは、脳外科医としての十年間で
ヒットラーとアインシュタインの間には
「百万分の一の差異と百万分の九十九万
九千九百九十九の類似がある」と知り、

その百万分の一を見出し、
とらえたいという強い欲望に
とりつかれていた。

彼にはここにこそ彼が女に夢中に
なる理由があるように思える。

彼は女に夢中になるのではなく、
その女の一人一人の思いもよらない
ところにひかれるのだ。

      (第Ⅴ部 軽さと重さ)


そういうことなら性交に進む必要もないの
ではないか……❓

という疑問も出すですが、それに対しては
以下のような回答が用意されています。

いわく、「百万分の一の差異が貴重なもの
としてあらわれてくる」のは「ただセックス
においてだけ」だ、なぜならそれは「努力
して得られるものだから」。

要は、「努力した」結果、相手のからだを
知って(英語の”know”は、古来この意味で
使われることがありますね;😻。チェコ語
にも同様の事情がありそうです)はじめて
その人の「思いもよらないところ」=
「唯一性」(他との差異)を発見する。

そのよろこびが何ものにも代えがたいが
ゆえに、やめられない…という論理。


やっぱり全然わからんという人もいそう
ですが、その一方で、なんとなくわかる
という男性(いや、女性も❓)結構いらっしゃる
のではないでしょうか?

ただ「わかる」と言いきれるほどの経験は
まだ積めていないし、今後も期待薄…
とほぞを噛む人が圧倒的多数なのかも
しれませんが;^^💦

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➍「スターリンの息子と糞(くそ💩)」の話

以上➊~➌の各章の記述とそこに引用した
名言を含む文章から、原作小説『存在の
耐えられない軽さ』の主題に関わるクンデラ
哲学の主要なポイントはほぼつかんで
いただけたのではないかと思います。

この➍で紹介したいのは、主題を語る上で
不可欠というわけではないけれども、
それ自体として非常に面白く、またロシアの
ウクライナ侵攻という2022年の”糞くらえ”
的事態に直面している私たちに新しい意味を
帯びて迫ってくる、小説内の一挿話
(エピソード)です。

旧ソ連で「神」と崇められた独裁者
スターリンの息子ヤコブの異様な死は、
1980年になって初めて新聞の報じる
ところとなった。

記事によると、彼は第二次大戦中ドイツの
捕虜としてイギリスの士官たちと同じ
収容所に入れられていたが、共同の便所を
糞で汚しっぱなしにするので、イギリス人
たちが怒って喧嘩になった。

     
     現在のアウシュヴィッツ収容所

ドイツ軍司令官に裁定を求めても相手に
されず、怒り狂ったヤコブはロシア語で
ひどい悪態をつきながら、電流の流れている
有刺鉄線の柵へ突進し、身を投げて死んだ
という。

ここには「際限のない軽さ」がある、
とクンデラは語ります。

スターリンの息子は命を
糞のために投げ出した。

しかし、糞のための死は
無意味な死ではない。

自分たちの帝国が広がるように命を
捧げたドイツ人たちや、自分の祖国の
権力がさらに西へ達するようにと
死んでいったロシア人たちは、そう、
ばかげたことのために死んだので、
その人たちの死には意味も、一般的
有効性もない。

スターリンの息子の死はそれに反して、
戦争の一般的なばかばかしさの中で
ただ一つの形而上的死として
際立ったものとなっている。

       (第Ⅵ部 大行進)

       


多くの命を犠牲にするという意味で重い
ことこの上ない戦争は、「ばかばかしさ」
といういわば「形而上的」な軽さを伴うもの
でもあり、スターリンの息子の死に様は
この矛盾の見事な表現たりえている!

という笑うに笑えないクンデラ一流の
ブラック・ユーモアの粋がここに
あります。
👉このヤコブ・スターリンは、
「神」ヨシフ・スターリンの息子として
(その母親はヨシフに射殺されたそう
ですが)、権力を伴わない”裸の王様”に
なってしまっていたのかもしれません。

この”裸の王様”状態は、まさに親父の
スターリンも、そしてその21世紀における
再来ともいえるプーチンについても
ほとんど同じことが言えそうですけどね。

そもそも”裸の王様”って何?

その意味・語源・関係する文学作品などに
ついてはこちらで詳しく情報提供して
いますので、ぜひご参照ください。

“裸の王様”の意味⦅原作に戻って教訓を考察⦆プーチンも瀬戸選手もそう?

           


まとめ

さて、これである程度にはご理解
いただけましたよね?

『存在の耐えられない軽さ』の、
特に原作小説の絶妙の面白さ、
その哲学的含蓄。

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ともかくこれくらいの知識・情報が
あれば、もうバッチリでしょう。

誰かさんにちょいと知ったかぶりを
してやろうかという場合も、あるいは
読書感想文やレポートを書こうか
という場合も。
👉小説よりやっぱり映画、特に
ジュリエット・ビノシュの可愛さが
たまらなかった…という感想を
おもちの方は、ぜひこちらも
ご参照ください。

『存在の耐えられない軽さ』から
8年後、大人の魅力を増した
ジュリエットを堪能できます。

イングリッシュペイシェント(映画)5つの”なぜ”⦅原作との違い⦆

  


いやいやサビーナ役のレナ・オリンの
方が素敵だったという人は、こちらも
ご覧ください。

奇しくも『イングリッシュ・ペイシェ
ント』と同じくレイフ・ファインズ
主演のこの映画で、30年後のレナの
見事な演技を堪能できます。

愛を読む人⦅缶だけ受け取るマーサー他5つの”?”⦆原作照合ネタバレ

     

👉そのほか、戦争や動乱を扱う映画や
その原作小説と比較してみると、
面白いことが色々と見つかると
思います。

こちらで情報提供していますので、
ぜひご参照ください。

シンドラーのリスト 赤い服の女の子の意味は?詳しいあらすじ(原作照合)

  


夜と霧 あらすじと感想文/レポートの書き方【2000字の例文つき】

          


戦場のメリークリスマスは意味不明?なぜキス?原作を見なきゃ謎な映画 

      
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ん? 書けそうなことは浮かんで
きたけど、具体的にどう進めていいか
わからない( ̄ヘ ̄)?

そういう人は、ぜひこちらを
ご覧くださいね。
👉当ブログでは、日本と世界の
文学や映画の作品について
「あらすじ」や「感想文」関連の
お助け記事を量産しています。

参考になるものもあると思いますので、
こちらのリストからお探しください。

「あらすじ」記事一覧

≪感想文の書き方≫具体例一覧


ともかく頑張ってやりぬきましょー~~(^O^)/
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