やあやあサイ象です。
「神は死んだ」などの名言で知られる
ニーチェ先生ですが、その一方で…
「恋愛と復讐にあっては、
女は男より野蛮だ」
ともおっしゃってますし、
またその一方で
「事実というものはない。
あるのは解釈だけだ」
とも喝破されています。
というわけで、「女は野蛮だ」という
指摘もニーチェ一個人の「解釈」に
すぎず、決して「事実」と決める
必要はない…
という話になるわけですね。
😸「猫のように」穏やかに見える練習を…
さて、そんなわけで本日は、このニーチェ先生の名言・格言のうち
特に結婚や恋愛にかかわるものを拾い
集めてその思想の特徴を押さえて
いきたいと思うんです。
まずは「愛」「結婚」「夫婦」といった
領域での名言・格言を紹介
していきましょう。
男女はたがいに思い違いをしている。
それは男女ともに、根本においては
自分だけを敬い、愛しているからだ
(もっと耳に入りやすい言葉で
言えば、それぞれの理想だけを
愛しているからだ――)。
だから男性は女性が穏やかな
存在であることを望むが、
――それはまさに女性が本質的に
穏やかでない存在だからだ。
猫のように、女性は穏やかに
見える外見を練習しているのだが。
(『善悪の彼岸』中山元訳、131節。
下線部は原文での強調)
穏やかに見える外見を練習……?
え? 女性への(そして猫への)
偏見に充ち満ちている?
いや実際、そうなのかもしれませんが、
(ニーチェに「女嫌い」の傾向がある
ことは明らかなので)ここは腹立ちを
抑えて、ニーチェのいわんとするところを
理解するよう努めましょう。
男女の愛においては、それぞれの自分の
「理想」を、したがって自分自身を愛して
いるのだという洞察ですね。
異論もありうるところでしょうが、
ともかくニーチェはこのことを
いろいろな角度から表現しています。
わたしたちは目覚めているときも、
夢の中のようにふるまうものだ。
すなわちわたしたちは、
つきあっている人物をこんな人だ
と思い込み、でっちあげる。
──そしてすぐにそのことを
忘れてしまうのだ。
(同138節)
こんな人だと思い込み、でっちあげる……。
愛は、愛する者の隠された
高貴な特性に光をあてる。
──その者の稀なるところ、
例外的なところをあらわにするのだ。
そのようにして、愛する者が
いつももっているものについて
思い違いをさせるのである。
(同163節)
👉愛する者の「いつも」について思い違いをさせる……。
結局のところ人が愛するのは
自分の欲望 であって、欲望され
た対象ではないのである。
(同175節)
うーむ、まさに深淵を覗く思いですね。
結局そういうことなのかもしれない…。
😸愛においても「事実」はない
これらの名言・格言はけっしてその場の思いつきなどではなく、
ニーチェの根本思想から直接に
導き出される類のものです。
現象に立ちどまって
「あるのはただ事実のみ」
と主張する実証主義者に
反対して、私は言うであろう、
いな、まさしく事実なるものはなく、
あるのはただ解釈のみと。
(『権力への意志』原佑訳、481節。
下線部は原文での強調)
あるのはただ解釈のみ……
厳密に同一の環境も正反対に
解釈され利用される。
事実というものはないのである。
(同70節)
われわれの「認識」自体がすでに
「解釈」なのであるから、
「事実」は存在しない。
男女の愛の場合も同じだ、
ということになります。
👉「嫌われる勇気」で有名になった
アドラー心理学の出発点にある
考え方もこれなんですね。
・嫌われる勇気 まとめと感想:アドラー心理学の源流にニーチェ?
この意味での「解釈」のシステムとして
人の視野を規定している枠組みがニーチェの
いう「遠近法」(パースペクティヴ)。
これに囚われてしまった見方を
「遠近法主義」(パースペクティヴィズム)
と呼んで批判し続けたわけですね。
😸愛の「遠近法」における男女の違い
人とつきあい、愛してしまうとき、この種の「遠近法主義」に多かれ少なかれ
囚われてしまう。
それは男も女も同じことではないか?
とも思われますが、ニーチェは
ここに明確に男女差を導入する人でした。
女性はそもそも、事物を客観的にみる
視点というものをもてない。
女性が性愛にあまりに大きな
期待をかけるからであり、
その期待の大きさに羞恥心を
抱くからである。
(『善悪の彼岸』中山元訳、114節)
おそらくこのジェンダー観
(男女差認識)から次のような
断言も導かれます。
復讐と恋愛にかけては、
女は男よりも野蛮だ。
(同139節)
女は男よりも野蛮だ……。
まあまあ、そうカッカしないで。
ここは「野蛮」の語のニュアンスに
注意する必要があります。
これを少しズラして「恐れない」という
言い方に置き換えれば、それはまさに
わが夏目漱石の文学世界では
ありませんか。
👉こちらをご参照ください。
・漱石の名言でたどる恋愛💛『吾輩』猫が読み直す『こころ』etc.


「恐れる男」の目には「恐れない女」が時として
「野蛮」とも映るわけです。
ある一人のひとだけを愛する
というのは、野蛮な行為だ。
他のすべての人々への愛を
否定する愛だからだ。
ただ一人の神への愛も
同じようなものだ。
(同139節)
その種の「野蛮」は、だから
必ずしも悪ではありません。
ただ、ここではそれが「ただ一人の
神の愛」を絶対的に要求しながら
表面的には「すべての人々への愛」
をも謳うキリスト教の「野蛮」さ
(ニーチェによれば、ですよ)と同じ
構造であることが、皮肉っぽく
指摘されているわけですね。
(すくなくともヨーロッパでは)みなが
ありがたがっているキリスト教の
「唯一神」なるものも、実はうつろで、
価値のないものなのではないか、という
巨大な「?」をニーチェは突きつける
わけです。
ホッ、なんとかたどり着きましたね。
ニーチェの名言中の名言、
「神は死んだ」の麓まで。


😸神が死に、海が開けた
「神は死んだ」という文言が読まれるのは、中期の著作『悦ばしき知識』(1882-83)
の108節,125節,343節の3か所のみ。
なかで125節は、「狂気の人間」が市場に
駆けつけて「おれは神を探している!」
などと叫び続けて物笑いの種になる
という劇的な構成になっています。
とても面白いのですが、「名言」として
抜き出すことはむずかしいですね。
なので、それはご自分でお読み
いただくこととして、ここでは343節の
初めと終わりだけ引用しておきます。
われわれの快活さが意味するもの。
──近代最大の出来事──
「神は死んだ」ということ、
キリスト教の神の信仰が信ずるに足
らぬものとなったということ──、
この出来事は早くもその最初の影を
ヨーロッパの上に投げ始めている。
〔中略〕
われわれの船はついに再び
出帆することができる、
あらゆる危険を冒して
出帆することができるのだ。
認識者の冒険のすべては、
再び許された。
海が、われわれの海が、
再び眼前に開けた。
おそらく、こんなに「開けた海」は、
かつてあったためしはないだろう。
(『悦ばしき知識』信太正三訳、343節。
下線部は原文での強調)
ヨーロッパで長く「事実」とされてきた
「ただ一人の」絶対的な「神」が、
科学的認識の普及により一つの
「解釈」にすぎないことが露見して
しまった今(ニーチェの時代)、危険だが
自由な「開けた海」が眼前にある。
この自由な「開けた海」に乗り出す
危険を冒してはじめて、こうも
言えるような「悦ばしき知恵」が
湧いてくるのではないでしょうか。
わたしたちが自分の悪を
みずからの最善のものと呼ぶ
勇気をもてたとき、 それが
人生のもっとも偉大な時期である。
(『善悪の彼岸』116節)
👉当ブログではあちこちで
ニーチェ先生にご登場願っています。
よろしければご参照ください。
・ニーチェ ツァラトゥストラは読みやすい?訳本選びがカギに
・刺青(タトゥー)を入れて後悔しないには?ニーチェ先生に聞く
・芥川『羅生門』の主張は?ニーチェ的”遠近法”で感想文
・芥川龍之介 河童で感想文:生まれたくないという名言からニーチェへ
ではまたお目にかかりましょう~~(^O^)/