ニーチェ ツァラトゥストラは読みやすい?訳本選びがカギに | 笑いと文学的感性で起死回生を!@サイ象

ニーチェ ツァラトゥストラは読みやすい?訳本選びがカギに

サクラさん
「ツァラトゥストラ」
ってなんすか?(🐱)

ハンサム 教授
ニーチェでいちばん
よく読まれてる本の
主人公。


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サクラさん
ああ、ニーチェって
あの「超人」とか「永遠
回帰」とかワケわかん
ないこと言ってる人?




なんだかむずかしくて
読めそうにないな(😿)

ハンサム 教授
いやいや、そんなこと
ありませんよ。

一つの物語になって
いるので楽しみながら
読めるんです。

エンデイングでは
主人公といっしょに
バカ笑いすることに
なるかも…(😹)

サクラさん
ええ~(🙀)そういう
世界なんですかあ?

難解そうに見える
のは翻訳のせい?

ハンサム 教授
そういう面もある。

訳本も多様なので、
自分に合った良いもの
を選べば、スイスイ
頭に入ってニーチェ
哲学もわかってくるん
じゃないかな;^^💦


というわけで本日のオススメ本は
フリ-ドリヒ・ニーチェの特異な著作
『ツァラトゥストラはかく語りき』
(1885)です!



1. どの訳本で読む?

楽しんで読めて内容も理解できるかどうか。

そのカギになってくるのが、どの翻訳で
読むかです。

そこでまず本を選ぶ必要がありますが、
実際どれが読みやすいかも、読者個人の
教養や嗜好によって違ってくるので
一概には決められません。

ただ私が見渡したところでは、哲学・
思想の基礎知識が十分でない人でも
入りやすく内容もつかみやすい翻訳は
2015年に出たばかりのこの本ですね。
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訳者の佐々木中(あたる)さんは1973年
生まれのまだ若い文学博士(哲学専攻)で、
よくこなれた日本語の書ける才人。

その文才はたとえばハンサム教授のいう
「バカ笑い」するような部分で読者も
笑える感じで訳出できているところ
などに遺憾なく発揮されています。

論より証拠、その訳文を何か所か
抜き出し、要所をほかの訳者の
文章と比べてみましょう。

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2.笑える驢馬のいななき

キリスト教を根幹にもつヨーロッパ社会の
常識を根底からくつがえすニーチェの
哲学を教祖的な人物ツァラトゥストラ
(語源はゾロアスター教の神)の
言動を通して表現していく…

というのがこの本のおおまかなあらすじ。

その過程で色々と変な人(動物・怪物も
ですが)も出てきて、大笑いしてしまう
ような部分もけっこうあるんです。

 


全4部のうち、特に最終の第四部は
ドラマチックな構成になっていて
文学的にはいちばん面白いと思います。

すでに世に知られ、教えを乞う者が慕い
寄るようになったツァラトゥストラは、
次々に奇妙な連中に出会って対話して
いくのですが、その連中というのが、

  • 一匹の驢馬(ろば)を連れた二人の王
  • 老いた魔術師
  • 最後の教皇
  • 最も醜い人間(神を殺した者)
  • (キリストを思わせる)すすんで
    乞食になった人
  • (ツァラトゥストラ自身の)影

といった、へんてこりんな者たち。

彼らはこの本で「賤民」とさげすまれる
奴隷根性のキリスト教徒よりは高い
(英訳では”higher”)者とされ、いわゆる
超人(英語の”superman”はもともと
その訳語)への橋渡しが期待される
位置にあるんですね。
   
それはともかく、この中でいちばん
笑わしてくれるのが、二人の王
(右の王と左の王)に仕える驢馬さん。

「われらよりも高貴な人間を探している」
という王たちの言葉に感銘を受けた歌を
つくろうとした時、突然、この驢馬が
言葉を発するんです。

驢馬ははっきりと、そして
悪意を持っていなないた。
「良いなあ(イ・アー)」と。


     

この「イ・アー」はドイツ語の”ja”
(英語の”yes”に当たる)が驢馬的に
なまったものと思われますが、これを
どう訳すかにも訳者の解釈とセンスの
違いが出るので、比べてみると
面白いんですね。

たとえば手塚富雄訳(中公文庫)では
「イ・アー(然り)といなないたのだ」と
直訳的ですが、氷上英廣訳(岩波文庫)
では「『さよう、さよう』と嘶(いなな)
いたのである」。

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2011年の丘沢静也訳(光文社古典文庫)だと
これが「ヒヒーンと鳴いて肯定した」に
なるんですが、それよりは「良いなあ」と
発語させた佐々木訳に軍配を
上げたいですね。

その方が、ただの阿呆とも「悪意」の皮肉
ともとれるこの驢馬の曖昧さが保たれ
ますし、このあとの「覚醒」の章で例の
奇妙な連中の「連禱」(れんとう)に
驢馬が全く同じ答えを9回も繰り返す
ところも、もっと笑えるものになる
からです。

ツァラトゥストラが自分の洞窟に戻った時、
連中が揃ってこの驢馬に祈りを捧げて
いるんですが、それにこたえて驢馬は
「イ・アー」を繰り返すんですね。

アーメン!

賞賛と栄光と知恵と感謝と賛美と
力とが、永遠無窮ににわれらの
神にあらんことを!

──驢馬はこたえていなないた、
「良いなあ(イ・アー)」と(叫び)。

かの御方、われらの重荷を背負い、
下僕の姿をまとい、心より辛抱づよく、
決して「否(ナイン)」とは
仰せられぬ。

かくして神を愛する者は、
これに鞭を加える。

 


──驢馬はこたえていなないた、
「良いなあ(イ・アー)」と(叫び)。 

〔中略〕

みすぼらしいお姿で世界を歩まれる。

その身は灰いろ、そのなかに徳を
お包みになる。

精神を持つがお隠しになる。

だが万人はその長い耳を信ず。

──驢馬はこたえていなないた、
「良いなあ(イ・アー)」と(叫び)。



〔中略〕

御身はまっ直ぐな道も
曲がった道も行かれる。

人間が何をまっ直ぐとし何を
曲がっているとするかは、
御身はあずかり知られぬ。

御身の国は善悪の彼岸にあり。

御身の無垢は、無垢とは何かを
ご存じないこと。

──驢馬はこたえていなないた、
「良いなあ(イ・アー)」と(叫び)。

「覚醒」の章でこの連禱(れんとう)が
9回も繰り返されてから、「驢馬祭り」の
章に入るとツァラトゥストラはたまらず
自ら「良いなあ(イ・アー)」と叫んで
飛び込んでいきます。

「神の死」を知っているおまえたちは、
今度は驢馬を偶像に祭り上げて新しい
宗教を創始しようとするのか…
というような議論になるのですが、
ここで「最も醜い人間」がこれは
あなたから学んだのだと答えます。

「徹底的に殺す者は、笑う」と
あなたはかつて言ったではないか…
「怒りによってでなく、笑いによって、
人は殺す」のだと。

    

ツァラトゥストラに手を引かれて外へ出た
「最も醜い人間」がやがて「ふかい、
あかるい」言葉を発し、聞いた者の心を
揺さぶります。

わたしははじめて満足した。
いままで生きてきた、全生涯に。
〔中略〕
この大地に生きることは
意味があることなのだ。

ツァラトゥストラと共にあった
ひと日、一度の祭りが、大地を
愛することを教えてくれた。

これが──生だったのか』。
わたしは死に向かって言おう。
よし! ならばもう一度!』と

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というわけで、作品中いくどか言及されて
きた「永遠回帰」の思想が結論づけられる
形になり、これを心から欲する者こそが
「超人」だ…という話になるわけですね。

   


なお上記引用の「連禱」で驢馬がイエス・
キリストの代役のようになっている
ことはわかりますよね。

だからこれは敬虔なキリスト教徒から
すればとんでもない瀆神(神への侮辱)
ということになるわけですが、牧師の
子に生まれたニーチェがキリスト教
批判に生涯をかけた人だということも
先刻ご承知と思います。

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それから中途に出てくる「善悪の彼岸」
がニーチェの別の本(道徳の成り立ちに
ついて分析・解説した重要な著作)の
タイトルになっていることも
ご存じの方が多いでしょう。
👉もちろんこれだけで「永遠回帰」とか
「善悪の彼岸」とかの意味内容がよく
分かるという人は少ないでしょうし、
それらは『ツァラトゥストラ』を
通読してもなお納得できない
可能性が高いかもしれません。

これらについて徹底的に考え抜きたい
という人には日本最高の哲学者の一人、
永井均さんこの本がオススメです。
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3.女性の愛のなかには…

ところでニーチェといえば、生涯独身で
通したことも有名で、ルー・ザロメという
才色兼備の女性にふられ、そのせいで
女嫌いになったのだとかの噂もあり…

ともかくその独自の女性観もよく
知られるところです。

  
  左からルー、パウル・レー、ニーチェ
👉彼らは一時期、3人での同居していましたが、
やがてレーはルーと二人でニーチェのもとを
去り、その後、なぜか自殺。

ルーは詩人リルケ、精神分析の始祖フロイトとの
恋愛でも知られています。

詳しくはこちらで。

“結婚生活は長い会話である”とニーチェが言ったって本当?出典は?

   


さて『ツァラトゥストラ』の第一部に戻り
その女性観がさっそく顔を覗かすあたりの
文章を見ておきましょう。

「友について」という章で、「奴隷」にも
「専制君主」にも「友を持つ」ことは
できないとしたあとで、ツァラトゥストラ
はこう断じるのです。

あまりにも長いあいだ、
女性のなかには奴隷と
専制君主が住んでいた。

だから女性はまだ友情を
むすぶことができない。

知っているのは愛だけだ。

   


女性の愛のなかには、彼女が
愛しないすべてのものに対する
不公平と盲目がある。

そして知的な女性の愛にすらも、
光とならんで、まだ奇襲と稲妻と
夜がある。
〔中略〕
今も女性は猫だ、小鳥だ。
もっともよくて、牝牛だ。

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👉このような「蔑視」とも見られかねない
女性観は、上でふれた『善悪の彼岸』など
別の著作でも繰り返されます。

「女性はそもそも、事物を客観的にみる
視点というものをもてない。

女性が性愛にあまりに大きな期待をかける
からであり、その期待の大きさに羞恥心を
抱くからである」とか、

「復讐と恋愛にかけては、女は男よりも
野蛮だ」とか。
(『善悪の彼岸』中山元訳、114、139節)

詳細は、すでにふれたこちらの記事で。

“結婚生活は長い会話である”とニーチェが言ったって本当?出典は?

     Photo-Manipulation-s


ところで、上記引用の部分では他の訳本と
大差はないようなのですが、いちいちの
訳語を見ていくと、やはり違いがあります。

「不公平」は手塚・丘沢とも同じですが、
氷上訳では「不正」で、やや女性に
対して厳しくなっている感もあります。


分かれたのは「奇襲」で、氷上訳
「不意討」、丘沢訳「不意打ち」は
大差ない訳語ですが、手塚訳では
これがなんと「発作」(叫び)。

「発作」は英語の”attack”にそういう
意味もある(”heart attack”で心臓発作)
ことから見当がつくと思いますが、ともかく
他の訳者とまったく違う解釈ですね。

女性のいわゆる「ヒステリー」が連想
されていることは明らかでしょう。

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4.漱石の書き込みが面白い

そういえば、わが夏目漱石が妻の
「ヒステリー」の発作に悩まされていた
ことも有名ですが、その漱石が『ツァラ
トゥストラ』の英訳(日本語訳はまだない
時代)をじっくりと読み込んで
いたんですね。

所蔵本へのおびただしい書き込みが
『漱石全集 第27巻』(岩波書店、1997)に
すべて収録されていて、だれでも読む
ことができるんですが、すべて英語です。

それらの書き込みは哲学的だったり、
文学的だったりして、いずれも示唆に
富むものですが、ズバリ、上記の女性観を
語った部分にも書き込みがありますので、
私の訳で紹介しておきましょう。

女性は彼女に可能な愛のすべてを
一つの対象に集中させる。

それ以外のものに対して
与えるものを何一つもたない。

   

だからこそそれ(女性の愛)を
もつ者にとってそれは貴重なのだ。

さすが漱石先生…これはその後書き継がれた
『こころ』などの恋愛小説に生かされていく
認識ではないでしょうか。

このような興味深い書き込みは沢山ありすぎて
すべてを紹介するわけにもいきませんので、
ここではあと一つだけ、最初に引用した
第四部「覚醒」の驢馬が「良いなあ
(イ・アー)」を繰り返す部分へのものを
見ておきましょう。


イエスを思わせる人について「まっ直ぐな
道も曲がった道も」行くが、彼の「無垢」は
「無垢とは何か」を知らないことだとした
文章に触発されて、漱石はこう書いて
います。

無垢なるもの(the innocent)が
好かれるのは、彼らが無垢だから
ではなく、技巧(artificialness)
を免れているからだ。

阿呆は無垢である限りにおいて
付き合いやすい。

 

女性は自らの言動につねに意識的
であるがゆえに付き合いづらい。

彼女らは消して無垢ではなく、
あまりにしばしば技巧的すぎる。

何世紀も前に孔子は言った、
「女人と小人は養い難し」と。

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漱石も結構、女嫌いなんだ~と驚かれた
かもしれませんが、それはまあそうだと
言うほかなく、こういう認識をもって
いたことは事実なんですよ。

この女性観が『三四郎』の美禰子から
『こころ』のお嬢さんに至る「無意識の
偽善者」(アンコンシャス・ヒポクリット)
タイプの登場人物を生んでいったとも
言えます。

     

ただ漱石が偉いのは、女はだからイヤだと
一方的に突き放して終わるのでなく、なぜ
そうなってしまうのかという原因を深い
ところまで探る文学を築き上げていった
ところにあるのではないでしょうか。
👉漱石の描いた女性については
こちらの記事もご参照いただけると
幸いです。

漱石の名言でたどる恋愛💛『吾輩』猫が読み直す『こころ』etc.

こころ(漱石)のお嬢さんはなぜよく笑う?先生はそれが嫌いだった?

三四郎(夏目漱石)で読書感想文 美禰子の真意をどう読むか

        ƒvƒŠƒ“ƒg


まとめ

さあ、ここまで読み進めたあなたは、
すでにツァラトゥストラの世界に片足を
踏み入れています。

あとはもう一本の足もズブズブと入れ、
腰を据えて読んでいくばかり。

  Feline-White-Lions-s

オススメの訳本はすでに紹介しましたが、
これもすでに申しましたとおり、読む人に
よって違うことなので、佐々木訳でなければ
絶対にダメというような話ではありません。

いちばんいいのは、大きな書店か図書館で
いくつかの訳書を手に取って比べ読みして
みることでしょうね。


ともかく『ツァラトゥストラ』は哲学的な
著作にはちがいありませんから、多少難解な
部分に出会うことは避けられないでしょう。

でも、そこで投げ出さず挑戦する気持ちで
読み進んでいけば、誰でもきっと何か
得るものがあると思いますよ~。
👉ニーチェにはほかの記事でもしばしば
ふれています。

興味をもたれたら、ぜひこちらも
覗いてみてください。

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ではまたお目にかかりましょう~~(^O^)/




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